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3.11取材報告:石のスープ

フリーランスのライターやジャーナリストがお届けする有料メールマガジン「石のスープ」。東日本大震災の取材報告を中心に、バラバラのフリーランサー達が集まって一つの媒体と作ると、どんな味に仕上がるでしょうか……

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渋井哲也「東日本大震災を取材するまで〜自己紹介にかえて〜」《無料公開中》 



週刊 石のスープ
創刊記念特別号[2011年9月18日号/通巻No.2]

今号の執筆担当:渋井哲也




■「石のスープ」への思い入れ

 はじめまして。フリーライターの渋井哲也です。このメールマガジンのタイトルである「石のスープ」の物語をご存知でしょうか。
 すでに、メルマガの紹介サイトでも紹介されていますが、ここに引用しておきます。


 とある村に、お腹をすかした旅人がやってきた。村人たちに食事を与えてくれるように頼んでみたが、自分たちの大切な食料を分ける事は出来ないと、断られてしまう。一度は引き下がった旅人だが、傍の石を拾い、再び村人たちと交渉した。
「故郷から持ってきたこの石を入れると、とてもおいしいスープができるんです。鍋を借りてお水をいただくだけで結構なのですが……」
 もちろん誰も信じなかったが、水と鍋だけならと村人の一人が半信半疑で旅人に水を与え鍋を貸してくれた。さっそく旅人は石を煮始めた。村人たちは、この奇妙な料理に興味津々。暫くして味見をしている旅人に、一人の村人がスープの出来を尋ねた。
「この石は、すでに沢山のスープを作り過ぎていて、少し味が薄くなってしまっています。塩と胡椒があれば、もっとおいしくなるんですが……」
 すると別の村人が、塩と胡椒だけならと旅人に与えてくれた。同じ要領で、野菜や肉を村人たちから少しずつ分け与えてもらった旅人は、見事においしいスープを作り上げた。
 スープの正体に気づかず、おいしい石のスープに感心する村人たち。スープで満腹になった旅人は、お礼だからと言って村に石を与え、また旅立っていった。


 この物語を知ったのは、大学1年生のころです。この物語を教えてくれたのは、同じサークル(社会福祉研究会)の同級生でした。最初に読んだ時には「詐欺じゃねえか?」と思ったのですが、これは、知恵をめぐる問題でもあるし、協力を暗示している内容でもあります。

 このメールマガジンを4人でやろうという話が出たとき、私はこの「石のスープ」の物語を思い出し、提案しました。


■フリーになる前は、地方紙の記者だった

 私は1993年4月、長野県諏訪市に本社がある「長野日報社」に入社しました。同社は前身が「南信日日新聞社」です。夕刊紙だったのですが、私が入社する前の92年、題字と社名を変えて、さらに朝刊に移行したのです。その際、同社が出していた、伊那日報、駒ヶ根日報、箕輪日報、南箕輪日報、辰野日報、木曽日報、塩尻日報などのローカル紙を合併、統合しました。こうして、中南信を購読エリアとする新聞ができたのです。

 諏訪地域は新聞が多い地域で有名でした。ほかにも諏訪エリアで発行している「岡谷市民新聞社」、諏訪市のみの夕刊紙「諏訪毎夕新聞」(2004年に廃刊)、下諏訪町のみ発行の「湖国新聞」(2005年に廃刊)があります。
 もちろん、長野県自体が新聞王国です。全県紙は「信濃毎日新聞」です。全県紙の登場は、戦時下の一県一紙体制のもとで実現しました。もともと「信濃毎日」は長野市のローカル新聞(長野新報)でした。しかし、新聞統合令で、長野県の地域紙が統合されていきます。
 長野県の場合、範囲が広く、新聞の数も多かったので、3次統合までありました。長野日報社は、もともと「諏訪新報」でした。その後、信濃新聞と合併し、「南信評論」となっていたのです。そして戦時下の新聞統合では「南信毎日新聞」として存続していましたが、1942年に「信濃毎日新聞」に統合されるのです。

 こうした歴史のある長野県の新聞社です。私は新聞社の歴史などに学生時代はまったく興味がありませんでした。しかし、長野県に行くと、「信濃毎日」の信頼度の強さ、行政との密な連携を意識せざるを得ませんでした。「長野日報」でスクープ的な取材をしていると、その情報が「信濃毎日」に連絡されることが多く、結局、先に追っていたのに、紙面では同じ日に掲載されることもありました。

 なぜ、そんなことが起きるのか。不思議に思っていました。
 それをひもといたのは戦時下の新聞統合でした。新聞統合問題に興味を持ったのは、「戦後50年企画」で「長野県下の中国人、朝鮮人の強制連行・強制労働」を調べていた時でした。戦争中、様々な組織が戦争に利用されていきますが、新聞社もそうでした。その体質を引きずっているように思えたのです。


■長野五輪や松本サリン事件報道への疑問

 そして1998年に「長野五輪」があります。この報道を巡っても、権威・権力に対して批判的な態度を取れない体質が出ていました。長野五輪招致委員会や長野五輪組織委員会には、各メディアも入っているために、委員会がしていることを批判しにくい環境にありました。当事者になってしまうからです。ここでは、その「おか
しなこと」は触れません。私が参加した「長野五輪反対デモ」は、取り上げたメディアはありません。
詳しくは、『オリンピックは金まみれー長野五輪の裏側』(江沢正雄著/雲母書房/1992年2月/)をお読みください。

 そうしたメディアの体質に対して疑問を感じることが、その前にも起きていました。
 1994年6月27日に起きた「松本サリン事件」です。
 化学兵器にも利用される神経ガスのサリンが松本市内で散布されるという事件でしたが、第一通報者の河野義行さんが「犯人ではないか」という扱いを受けることになります。
 この時は、逮捕されず、弁護士が早い段階でついたのですが、それが余計に「どうしてこの段階で弁護士をつけるのか?」「怪しいんじゃないか」という一般市民の偏見を助長させていきます。その偏見を利用しながら、警察は「河野に年越しそばを食わせるな」を合い言葉に、年内決着を決意していたとも言われています。

 こうした警察の体制や一般市民の偏見をメディアは十分にチェックできずにいました。
 検証の役割を果たしたのは、松本美須々が丘高校放送部でした。検証番組「テレビは何を伝えたか」は反響を呼び、「第43回NHK杯全国高校放送コンテスト」で、ラジオ番組自由部門優勝(文部大臣奨励賞)を獲得。NHKラジオ第2放送で全国放送されました。
 1995年9月から取り組み、ラジオ版が完成したのは翌96年7月でした。テレビ版の作成は97年に作成することになり、98年1月、「第20回東京ビデオフェスティバル」で大賞を受賞したのでした。

 本来、メディア自身が検証番組を作るべきですが、高校の放送部がしたことがすごいと思います。詳しくは、『ニュースがまちがった日ーー高校生が追った松本サリンン事件報道、そして十年』(林直哉・松本美須々ヶ丘高校放送部著/太郎次郎社エディタス)に載っています。
 その後、その検証番組をもとに映画『日本の黒い夏ー冤罪』(熊井啓監督)が制作されました。

 松本サリン事件や長野五輪を直接取材したことはありません。私は当時、木曽支局(現在は支局が閉鎖)の記者でした。
 新聞社は担当部署があります。分かりやすく言えば、松本サリン事件は長野県警と松本署の担当記者が書くことになります。長野五輪は本社と長野支社の担当記者が書きます。事件をめぐる捜査に疑問があっても書くことは許されません。また、長野五輪でも、私自身はスポーツは好きなこともあり、出場選手の取材はしましたが、新聞記者としては組織委員会や運営上の問題は執筆していません。


■もう一つのメディアへの指向性

 いろんないらだちがありました。もし、そのとき、東京のメディアに属していたら、新聞記者であっても、雑誌で匿名記事を書こうとしたかもしれません。「私が書いた」というよりも、「何を書くのか」が重要だと思ったからです。

 私が入社した1993年頃といえば、『週刊金曜日』が発刊されるた時期です(1993年11月創刊)。各地に読者会ができ、地域から盛り上げて、オルタナティブなメディアを作って行こうというムードがあった時です。長野県でも各地に読者会ができ、私は、諏訪、伊那、松本、長野の読者会とつながり、いろんな情報発信をしようとしていました。その後、社員時代に『週刊金曜日』で長野五輪のことを執筆することにもなります。

 当時の出来事として、長野、松本、諏訪、伊那、飯田の読者会で共同で出した「長野県拡声器条例案への反対声明」がありました。この案文を私が書きました。
 デモや街頭活動の際、拡声器などを使うことがありますが、一定の音量が出ると規制対象になります。私は表現の自由、集会・結社の自由を脅かすものとして、反対をしていました。そのため、つながりのある読者会を巻き込んでなにか反対声明が出せないか。そして、それを『月刊金曜日』(同年7月〜10月、週刊になる前に創刊準備号として月刊を発行した)に掲載できないかを考えていました。

 長野県は、『金曜日』の編集委員の1人、本多勝一氏(元朝日新聞)の出身地です。本多氏は故郷の長野県を大事にしていることが著書でわかりますし、読者会が主催するイベントにも参加してくれていました。また、当時の編集長・和多田進さんも熱心に長野県の読者会に来てくれていました。そのため、当時の読者会の中では、比較的、編集部とのパイプが強かったほうだと思います。

 こうして拡声器条例案の反対声明の掲載はすぐに実現しました。

 ただ、オルタナティブなメディアを作るのは、産みの苦しみがありました。読者会の仲間が自殺をしたのです。詳しいことは書きませんが、彼なりに、今の生活とあるべきメディアの狭間で葛藤していたのです。


■震災と報道 〜阪神大震災〜

 こうした一連のことは、「このまま、新聞社にいていいのか?」という疑問を持たせました。そんな時、1995年1月17日、阪
神大震災が起きます。
 私はその日、遅く起きました。テレビを付けっぱなしで寝てしまった私は、目を覚ますと、テレビでは津波注意報の発令と出ていました。ご存知のように、長野県は山国です。津波は関係ありません。どこで地震があったのかニュースを確認する時間もなく、支局に向かいました。
 支局に到着すると、先輩記者たちはテレビに釘付けでした。

 私 「どうしたんですか?」
 先輩「神戸で地震だよ」
 私 「神戸だったんですか。でも、そんなに大きいんですか?」
 先輩「朝のニュース見てないのか?」
 私 「寝坊してしまったので」
 先輩「ラジオは?」

 そう聞かれましたが、私が当時住んでいた塩尻市から木曽福島町(現在の木曽町)まで、山奥なので、ラジオはまったく入りませんでした。そのため、ラジオも聞いていません。状況が飲込めずにいた私はテレビを食い入るように見ていました。
 テレビを見ていた私は、一刻も早く現場に行きたいと思いました。

 一週間後、私は神戸に行きました。
 長野県と直接関係のない地震ですから、出張扱いにはなりません。行って何ができるかわからないと思っていました。仕事は休暇にしていますから、取材をしようが、ボランティアをしようが好きにやれます。
 最初、ボランティアをしようと、どこかのボランティア団体の事務所に向かいました。現在では、災害ボランティアは窓口が統一され、社会福祉協議会が主導で、災害ボランティアセンターを開設したりします。当時は窓口はバラバラでしたが、それでも、それなりにニーズを把握していたように感じました。ただし、そのボランティア団体事務所に行っても、2〜3日しか滞在しない私は、ただ一か所を動いて、瓦礫の撤去をすることになってしまいます。

 私のすべきことは何か、考えました。ボランティアはものすごく来ている時期です。私1人がボランティアをしたところで、やれる範囲は決まっている。ならば、私は取材記者だという原点に戻り、取材をしようと決意しました。
 取材をするとしても、最低でも長野県との関連を見つけなければなりません。そこで、事前に情報として頭に入っていた長野県の医療支援本部があった「長田高校」に行くことにしました。そこで、2日間泊まって、避難所の人たちと交流し、話を聞くことができました。これが私の災害報道の原点となったのです。

 その後もことあるたびに、阪神大震災関連の取材をしました。ただ、後悔していることがあります。取材で小学校2年生(当時)の女児と出会ったのですが、彼女の「その後」を追いかけることができなかったことです。
 手紙のやりとりはしていましたので、連絡を取ろうとすることができるでしょう。しかし、日々の仕事に目を奪われ、継続取材ができなかったのです。震災発生日となる1月17日には、毎年のように思い出してはいたのですが……。


■東日本大震災の発生

 そして、2011年3月11日、東日本大震災が発生します。
 私は当時、駒沢大学で講演の仕事がありました。当初は3時過ぎに家を出ようとしていましたが、準備が思ったよりも早くできたために、2時30分過ぎに家を出たと記憶しています。歩いていると、缶コーヒーが呑みたくなり、自動販売機で買いました。そのおかげで、信号が赤になり時間のロス。青が変わり、横断歩道をわたり終え、少し経つと、「ゴォゴォゴォ」と地響きがしました。

 「え?もしや、トラックが暴走しているの?」

 と思い、後ろを振り返ると、誰もいません。そのうち、立っている地面の揺れを感じました。周囲のビルはとても揺れていました。しかし、私は、「あ、大きい地震だ。すぐに終わるだろう」と思っていました。大きな揺れが終わったとき、たまたま近くにいた消防車に乗っていた消防士が、

 「大丈夫ですか?!」

 と叫んでいます。何事かと思って、進行方向を向きました。すると、近くのお墓の側面の壁が崩れているのが分かりました。同時に、思ったことがあります。缶コーヒーを買わないで、もしそのまま歩いていたら、ちょうど、崩れた辺りを歩いていたかもしれないと。

 しかし、私はそれでも、「こんな地震はよくある程度だ」と思うことしかできませんでした。こうした感覚は「正常性バイアス」と呼ばれています。明らかな危機的な事態になったとしても、危機という信号が届かず、日常生活の中でしか考えないのです。そのため私は一旦は歩みは止めたものの、再び、駅に向かおうとしました。周囲のビルからは多くの人が下りて来ていました。

 「大げさだな」

 まだそんなことを思っていました。ただ、あまりにも多くの人がビルから出てくるのを見て、もしかすると、「私が感じていた地震
の程度よりも、大きい地震だったのか?」と思いました。
 携帯電話を見ても「圏外」の表示ですが、そんなことはよくあることと考えていたところ、ビルから出て来た人が、

 「また揺れてる」

 と言いました。そんなに揺れているのなら、私の部屋は大丈夫か?と思い、早めに家を出たので、一旦引き返そう!と思ったのです。家に帰ると、テレビやパソコンは壊れていませんでしたが、書類や書籍が散乱していました。あとで分かることですが、私が住む部屋の上階(2階)では、テレビが壊れたようです。

 片付けが終わると、いったいこの地震はどこまで被害が出たのかを知りたくなり、自宅のパソコンでインターネットにつなぎました。震源は宮城県沖。地震の規模はマグニチュード8(のちにM9の訂正)。最大震度は7。東京で震度5弱でした。
 宮城県の知人に電話をしてもつながりません。そこで、携帯電話のメールと、mixiのメッセージ、Twitterのダイレクトメッセージで安否確認をしました(返事が来たのは3日後でしたが……)。


■自分のできること探し

 次にしたのはTwitterやmixiなどでの情報収集でした。
 特にTwitterでフォローをしている人たちは首都圏在住者が多く、帰宅難民となっている状況が分かりました。帰宅難民となって職場から自宅まで歩く人が多いということがわかりました。そのため、休憩スポット、避難所などの情報が流れ始めていました。正確な情報かどうかわかりませんが、精度の高そうな信憑性のある情報をRT(リツイート:誰かのつぶやきをコピーして、つぶやくこと)しました。

 夕方4時を過ぎていたと思うのですが、Twitterのつぶやきで誰かが「フジテレビ 津波」と書いていたのを発見しました。あわててテレビを付けました。仙台だったかどうかわかりませんが、広大な農地を津波が襲っている映像でした。これは大変なことになる。しかも復興までに長い時間がかかる、と直感的に思いました。そして、この震災を取材しなければ、と思いました。

 ただ、私は自家用車がありませんし、都内ではすでに渋滞が起きていました。速報は大手メディアには負けてしまう。現場で写真を撮るとしても、高性能の望遠レンズが必要になるはずですが、そこまでは用意できない。そのため、すぐに動くことを躊躇しました。震災直後の被災地に向き合う覚悟がなかったとも言えるかもしれません。

 私ができることは何かを考え、震災直後に様々な心理的なケアが必要になると思い、ソーシャルメディアに専用のコミュニティを立ち上げました。

【twitter】
心理面や福祉面で、相談できる精神科医、カウンセラー、社会福祉士、ライター、ジャーナリストのリスト
http://twitter.com/#!/shibutetu/mental-list/members

【mixi】
災害と心のケア@東日本大震災
http://mixi.jp/view_community.pl?id=5523303

【Gree】
東日本大震災と心のケア
http://gree.jp/community/2595470

【Facebook】
災害と心のケア、PTSD
http://goo.gl/q7JH9

 こうしたコミュニティを作り、少しでも不安を解消できる場、そのための情報交換をしようと思ったのです。

 また、帰宅難民のために、新宿・歌舞伎町で私と友人が共同経営している「Bar はな」を帰宅難民のために開けておこうと思い、店に行きました。
 行ってみると、ある方向だけの酒瓶が落ちて割れていました。その片付ける様子は、動画機能のあるアプリ・ツイットキャストをい使ってインターネット流していました。しかし、結局、お客さんは来ませんでした。あとから聞いた話では、「『はな』のほうが地震で危ないんじゃないか?」と思っていたそうです。それはそうかもしれません。「はな」の建物は、確認できる記録では「昭和39年」には存在していたそうで、第2次世界大戦の前に建てられていたという話もあります。そんな建物ですが、結果として、地震には強かったようです。


■被災現場取材への決意

 翌12日、私は、所属する「自由報道協会(仮)」の事務所に行くことにしました。私が事務所に行ったのは、何ができるかを考えるためでもありましたが、もしかすると、私自身の不安解消のためだったのかもしれません。
 事務所には、すでに、数人のメンバーがいました。会見に出かけるために出入りをするメンバーもいました。私はみんなの動きを見ていました。と同時に、被災地にはいつごろ行こうか、行けるかを考えていました。
 
 そのまま13日の朝まで事務所で過ごし、私は経済産業省の原子力安全・保安院の会見に行くことにしました。そこでは速報メディアの記者やフリーランスの記者が詰めていました。記者がいらだっていることが分かりました。東京電力の福島第一原発の事故があったにもかかわらず、説明が論理的でもないし、不明快だからです。

 私も質問をしてみました。発表された資料によると、被曝した住民がいるとあり、人数も書いてありました。しかし、一方は被曝量が書いてあるのに、もう一方は書いてないのです。すると、被曝量の書いていないグループは、検査をしていなかった、というのです。では、なぜ検査をしていないのに、被曝したとわかるのか。どんな状況だったのかをただしました。しかし、回答は「わかりません」を繰り返すのみでした。

 新聞記者だった私が思っていたことは、現場には実は情報が集まらない。集まるのは現場ではなく、対策本部だ、ということを思っていたことを思い出していました。事件取材などでは、そういうことがあり得るのです。しかし、災害や原発事故は本部には情報がなかなか届かない。これは、今回の震災を取材しての実感です。「わからない」の繰り返しに私は焦りといらだちという気持ちがわいてきました。そして、「ここにいては何もわからないかもしれない」と思ったのです。
 
 こうしている間に、「ビデオニュース・ドットコム」のビデオジャーナリスト神保哲生さんが福島入りをしたという話が耳に入りました。やはり、被災現場に行かないと、この震災は分からない、と思うようになっていきました。そういう思考をしていた時に、先ほどの保安院のような会見ではらちがあきません。被災現場に行くしかない。

 ただ、ガソリン不足です。しかもレンタカーがなかなか借りられないという情報も入ってきました。これは自家用車を持っている誰かにお願いをするしかない、と思ったのです。すると、編集者の渡部真さんが自家用車を出すという申し出をしてくれたのです。こうした足の確保ができた私は、さっそく被災現場を取材する準備をすることになったのです。

*  *  *  *  *  *


 この連載では、震災取材のこと、私がライフワークとしている、若者の自殺、自傷などのメンタルヘルス、ネット・コミュニケーション、サブカルチャー、性をめぐる様々な事象について、書いていきたいと思っています。


このブログは、有料メルマガ「週刊 石のスープ」の売上げで管理・公開されています。メルマガ読者限定記事をご希望の方は、バックナンバーをご購読ください。

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■渋井哲也 web連載
「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」

ビジネスメディア「誠」
http://bizmakoto.jp/ 



渋井哲也 しぶい・てつや
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーション等に関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。
[Twitter] @shibutetu
[ブログ] てっちゃんの生きづらさオンライン



■発行元:「週刊 石のスープ」編集部

■文責:渋井哲也・西村仁美・三宅勝久・渡部真
■編集:渡部真

■サイト: http://weeklysdp.blog.fc2.com/
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