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3.11取材報告:石のスープ

フリーランスのライターやジャーナリストがお届けする有料メールマガジン「石のスープ」。東日本大震災の取材報告を中心に、バラバラのフリーランサー達が集まって一つの媒体と作ると、どんな味に仕上がるでしょうか……

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三宅勝久「作文はつらいよ~自己紹介にかえて~」《無料公開中》 



週刊 石のスープ
創刊記念特別号[2011年9月27日号/通巻No.4]

今号の執筆担当:三宅勝久




■実は作文が大の苦手です

 読者のみなさんはじめまして。メールマガジン『石のスープ』執筆者でジャーナリストの三宅勝久です。ご関心を持っていただきまして誠にありがとうございます。

 私自身のことについてご紹介いたします。
 1965年岡山県倉敷市生まれの46歳独身男です。東京都杉並区阿佐ヶ谷に住んでいます。最近は『マイニュースジャパン』 http://www.mynewsjapan.com などに記事を書くのを主な仕事にしています。1〜2年に1回ほど単行本を出したりもしています。

 東京に出てきたのはちょうど10年前。この間、武富士の過酷な営業について告発記事を書いたり、自衛隊内で起きている隊員虐待や多発する自殺の問題、外資系金融機関のシティグループをめぐる違法なビジネスといったテーマを追いかけてきました。武富士からは「1億1000万円払え」と名誉毀損で訴えられたこともあります。何年もかかって裁判をやって勝訴しました。これは面白い体験でした。
 また地元杉並区の区政や区議会議員らのデタラメな税金の使い方を追及して記事を書いたことあります。こちらは取材に深入りするあまり、自分で住民訴訟を起こすはめにもなってしまいました。勝訴を勝ち取ったケースもあります。いまも、3つの裁判が係争中です。
 武富士の問題は『武富士追及 言論弾圧裁判1000日の記録』(リム出版新社、絶版)、自衛隊は『悩める自衛官』『自衛隊員が死んでいく』(以上花伝社)、『自衛隊という密室』(高文研)という著書になっています。また近著に『債鬼は眠らず
 サラ金崩壊時代の収奪産業レポート』(同時代社)というのがあります。ご関心があればお手にとっていただけますとうれしいです。
 3月11日の大地震以降は、もっぱら電力会社や原発メーカーへの官僚や議員の天下り問題を調べて記事を書いていて、これは近く単行本になる予定です。

 まるでいっぱしのモノ書きのようですが、稼ぐことよりも興味の赴くままに調べて喜んでいるという感じで、職業というより趣味といったほうが正しいかもしれません。
 実のところ、私は作文が大変に苦手です。調べるのは好きですが書くのは嫌いです。この自己紹介文も締め切りを遅らせてもらって、ようやく重い腰を上げて書いています。高校時代の国語の成績は、100点満点の40点から50点といったあたりで、常に低空および中空を漂っていました。記憶力がためされる古文漢文になると10点や20点はざらにありました。「文章を書く仕事は絶対に無理」と自他ともに信じていた
のです。
 文章が苦手な者がどんないきさつでそれを仕事にすることになったのか。自己紹介に代えて振り返ることにします。


■イスパニア語って、どこの言葉?

 国語の点は悪かったのですが、たまたまイギリス語(英語)は比較的よく、高校では文系受験コースに進みました。そして大阪外国語大学のイスパニア語学科というところに進学しました。1984年のことでした。いまは合併によって大阪大学外国語学部になっています。
 恥ずかしいことに、私は入学式が終わってしばらく後まで、イスパニア語がスペイン語のことだとは知りませんでした。
〈受験勉強から解放されたい、岡山の田舎から脱出したい。大学に入ったら遊びたい〉
 と当時、私の頭の中にはそれしかなかったのです。
 スペイン語を勉強する気など毛頭ないままスペイン語の大学に来てしまったのですから、後悔しました。外国語をゼロから学ぶのは大変な苦労がいります。自由になって遊び放題どころではありません。
「言われるとおり受験勉強しろ。余計なことは考えるな。偏差値のいい大学へ行けば好きなことをやればいい。パラダイスだぞ」
 そう高校で言われ続け、素直に信じてきた私は、すっかりあてがはずれてがっかりしたわけです。

 もっとも「やりたいこと」が具体的にあったのではなく、受験勉強の苦痛から一刻も早く解放されたいというのが最大の願いでした。大学の入学試験に受かって確かに受験勉強からは解放されました。しかし、大学では単位をとって卒業するというあらたな呪縛が待っていたのです。そんな覚悟はありませんでした。
 なぜイスパニア語を選んだのかというと、高校の成績で、英語科なら当落ギリギリ、イスパニア語は安全圏だったというそれだけのことでした。岡山の田舎を出たかったので外国には漠然と興味がありました。浪人してまで受験勉強の苦しみを味わいたくないので、たぶん合格するだろうといわれた「イスパニア語」にしたのです。

 入試の偏差値で大学の序列を細かくきめた表が高校の壁に張り出されているのを思い出します。一番てっぺんが東大法学部か何かで、国立の中では下のほうに琉球大がありました。研究や教育の内容ではなく入試の点で大学を評価するという偏見教育が、高校の中で堂々と行われていたのですね。大阪外大にどんな研究者がいて、どんなことをやっているのかなどと教えてくれる教師はいませんでした。私も知りたいとは思ってなかったのです。
 教師の関心はもっぱら国公立大学に何人合格したのか、有名私立に何人受かったのか、ということばかりでした。子どもの人生よりも自分の成績が大事だったのでしょうね。もし一人くらい「イスパニア語というのはスペイン語だぞ。いいのか」と教えてくれればあるいは考え直したかもしれません。

 ただ、たとえばもし私にすばらしい高度の受験勉強の才能があってテストの点を取ることに長けていれば、ランキングトップの東大法学部あたりに行って、さらなる競争ゲームを勝ち抜いて国家公務員の上級試験に受かり、たとえば経済産業省の高給官僚になっているかもしれません。だとすれば高校の先生たちは大喜びしていることでしょう。役所の中でもさらに出世して資源エネルギー庁長官にでもなった日には、間違いなく「高校の誉れ」扱いです。そして自信を持って原発を進めて日本を破滅に追いやるのに一役買ったかもしれません。でもおそらく仕事に情熱を感じるわけではなくて、競争ゲームオタクです。そのつまらなさを想像すると、余計な才能がなくてよかったと親に感謝しています。


■彷徨った果てに見つけたもの

 大学の話に戻りますが、税金で運営している国立大学に私のようなやる気のない学生が入るのは文字通りの税金の無駄遣いです。しかし、私にとってみれば大学にいさせてもらったお陰で、スペインや中南米に目を開かせてくれたというのも事実です。決して勉強の成果ではなく、逆に勉強に飽きて脱落した結果といえます。
 大学1年目はかろうじて進級できたものの、2年目でさっそく成績不良で留年してしまいました。見通しは暗く、これまで人生設計をまじめに考えてこなかった自分に気がついたのです。

 面白くない大学の中でもっぱら入り浸っていたのが剣道部でした。部活だけが救いでした。こちらは、年功序列、男尊女卑の絶対的封建社会ですから、何年留年しようが年季を積んだだけ権力が増してくるのです。居心地のいいところでした。
 ところが3回生で2年生の春休み、つまり大学3年目で1年留年中していた1986年の春、私は網膜剥離という目の病気をわずらって手術することになり、剣道を断念せざるを得なくなってしまったのです。
 病気は幸い発見が早く、手術もうまくいって失明はまぬかれました。当時大阪市の中ノ島にあった大阪大学付属病院にしばらく入院しました。壇上さんという頼もしい感じの医師が執刀してくれました。シリコンの袋を眼球の後ろに縫いこむという新しい術法が使われはじめたばかりで、それによって私の目は救われたのです。
 ごく最近知ったのですが、国立民族学博物館の館長をしていた文化人類学者の梅棹忠夫さんが同じころ阪大病院の眼科に入院していたそうです。梅棹さんは原因不明の失明状態に陥っていたのです。その後も視力はほとんど回復しなかったのですが、引き続き多数の著書を出し偉業を次々となしていくことになります。  

 私がこのときにもし失明していたら、いまはどんな人生になっていただろうかと時々考えます。本も読めなければインターネットで調べることもできない。文章もかけただろうか。写真も撮れない。もし医療の受けられない国に生まれていたら失明していたわけで、幸運に感謝しています。

 目の手術をしてからは剣道もやめて、かといって学業にも身が入らずぶらぶらしていました。そんなある日、ふと入ってみたのが写真部の部室でした。中学生のときに天体観測に凝っていたことがあって、モノクロ写真の現像や焼付けをしたことがありました。それで暗室の臭いが懐かしくなったのです。
 写真は性に合っていて、友人やら近所の人たちを被写体に手当たり次第に大量の写真を撮るようになりました。アルバイトでためた金で中古のレンズやカメラの費用や、フィルムと印画紙代にあてました。フジフィルムのネオパンプレストという高性能の白黒フィルムが発売されたばかりで、100フィート(約30メートル)3000円ほどの長巻と呼ばれるのを買ってきて、自分でパトローネ(フィルムの入っている容器)に詰めて使っていました。

 写真に熱中することで嫌なことから逃げていたのですね。でも逃げたところでツケは回ってきます。留年の不安はつきまとい、下手をすると放校になる恐れが出てきました。やめてもやりたいことがはっきり見つかったわけではありません。
「ああいやだ」と悩んだ挙句に思いついたのが海外放浪です。これは日ごろから世界を無銭旅行したいな、などと下宿の友人とよく語っていたのが背景にありました。
「小田実の『何でも見てやろう』のような放浪の旅がしてえなあ」
 そんなことを話していたのです。大学4年目でまだ2年生。二度目の留年をした春、もやもやしている私に友人はボソと言いました。
「1年くらい外国放浪してきたらどうや」
 この一言で決心がつきました。行き先はスペイン。いやいやながらもスペイン語を勉強した影響でした。資金は30万円ほど。親の仕送りをためた金とアルバイトの稼ぎでした。休学して下宿を引き払い、1年間あてのない旅をしてくることにしたわけです。休学すれば学費を払わなくていいのです。親は驚いて怒り、反対しましたが、「絶対に大学を卒業すること」を条件に最後は認めてくれました。

 旅先のことは書き出すときりがなくなりますが、詐欺にあって文無しになってレストランで働いたり、いろんなことがありました。しょっちゅうデモをやっていました。時間は守らないし、口先だけのいい加減な奴が多いな、と感じていましたが、じつは日本のほうがデタラメじゃないか、と今になってしばしば思います。
 スペインから日本に戻り、学業に復帰すると再び留年してしまいました。もっともスペインでは働きながら何年もかけて卒業するというのが普通だったので、ぼつぼつやればいいというくらいに気楽になっていました。まだ仕事がたくさんあった時代で、大阪ガスの孫受けで土木作業をやりながら月に20万円くらいは稼いでいました。そして、「休学型放浪」に味をしめた私は、もう一度、今度はメキシコへ行くことにしたのでした。やっぱりあてのない旅でした。
 もう外国に行ったきり帰って来ないのではないか。親はそう思ったらしく涙ながらに止めました。今と違って携帯電話もなく、連絡が途絶えたらなす術がありません。心配するのも無理はありません。


■それでもやっぱり作文は苦手です

 報道の仕事をしてみたいと考えるようになったのはメキシコを旅したころからです。ちょうど米軍がパナマを侵略し、第一次イラク戦争が起きたときです。報道の仕事といっても記事を書く記者ではなく写真のほうでした。 
 大学は最終的に9年かかって卒業しました。留年3回、休学2回。卒業したといっても就職せずに、引き続き同じ下宿に住み、ときどき大学に行っていました。アルバイトをしながら年のうち半年くらいをつかってアフリカや中南米を訪ね、写真を撮ってくるという仕事をするようになりました。

 そんな暮らしを5年ほどした後の1997年、たまたま岡山に本社がある『山陽新聞』が社会人募集をしていて、ためしに応募したら採用され、新聞記者をすることになったのです。偶然の成り行きです。新聞社は5年でやめてフリージャーナリストの今にいたります。
 気がついたら、あれほど苦手だった作文を買ってもらって生活をしているのですから、本当に不思議です。

 あいかわらず文章は苦手です。でも書くことは必要なことだと思うようになってきました。生活のためだけではありません。
 当たり前のことですが、私たちの周りでは刻々といろんなことが起きています。頭の中にもいろんなことが浮かんでは消えていきます。文章を書くというのは、これらのおびただしい事象から何かを選んで、さらに考えて組み立てて、他人に伝わる形に作る作業です。
 作文を書くのが苦しいというのは、この考える作業の苦しみにほかなりません。考える苦しみ、考えを練る苦しみ、論理を生む苦しみです。しんどいから考えない、見ない、言わない、書かないというのは考えることを放棄することではないか。かつての自分自身はそうだったと、いささか恥ずかしい半生を振り返って思うのです。
 考えることを放棄すれば簡単にだまされる。福島第一原発が壊れたのは、あるいは多くの人が考えることを放棄した結果ではないだろうか、とも思っています。

 このメルマガでは、私の思いついたものを興味の赴くままに書いていくつもりです。最近は原発関連の取材が多いので、原発事故のレポートや電力会社の歴史、原発裁判といったテーマも取り上げたいと考えています。
 書くのはつらい。悩みます。悩んで、できることなら悩むことを楽しみながら記事をお届けいたします。おつきあいいただけましたら光栄です。


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三宅勝久 みやけ・かつひさ
1965年岡山県生まれ。フリーカメラマンとして中南米・アフリカの紛争地などを取材、『山陽新聞』記者を経て2002年からジャーナリスト。「債権回収屋G 野放しの闇金融」で第12回『週刊金曜日』ルポルタージュ大賞優秀賞受賞。2003年、同誌に連載した武富士批判記事をめぐって同社から1億1000万円の賠償を求める訴訟を起こされるが最高裁で武富士の完全敗訴が確定。不当訴訟による損害賠償を、同社と創業者の武井保雄氏から勝ち取る。
主著に『サラ金・ヤミ金大爆発 亡国の高利貸』『悩める自衛官 自殺者急増の内幕』『自衛隊員が死んでいく “自殺事故”多発地帯からの報告』(いずれも花伝社)、『武富士追及 言論弾圧裁判1000日の闘い』(リム出版新社)『自衛隊という密室 いじめと暴力、腐敗の現場から』(高文研)など。
[Twitter] @saibankatuhisa
[ブログ] ジャーナリスト三宅勝久公式毒舌ブログ



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西村仁美「現実に突き動かされて~自己紹介にかえて~」《無料公開中》 



週刊 石のスープ
創刊記念特別号[2011年9月22日号/通巻No.3]

今号の執筆担当:西村仁美




■なんだか嫌な予感がした。

 原稿を打とうといつものようにパソコンのある机について間もなくのことだった。
 忘れもしない3月11日、午後2時46分頃のことだ。
 揺れを感じ地震と思ったが、普段ならこの程度なら私は机を離れない。でもこの日ばかりはどういうわけかキーボードを打つ手を止めていた。そして隣りの部屋の食卓の下に潜り込もうと動き始めたところで、揺れが大きくなった。机の下に入った頃にはさらに揺れは大きくなり、途中で突き上げるような感じがあった。
「これはヤバイ……」
 そう思った。
 中学生の頃、地理か何かの科目の先生に「いつ東海地震が起きてもおかしくない。明日来てもおかしくないんだぞ」とさんざん言い聞かされてきた。関東大震災みたいにでかい地震で、東京もその被害を免れないよといった内容だった。だから東海地震がついに来たんだと思った。そして死ぬかもしれないと思った。目の前にあった食器棚は扉が開き、皿やコップが次々に床に落ちては音をたてて割れていった。まるで川の上流から水が流れ落ちていくような感じだった。
 揺れはなかなか止まらない。いつの間にか体がガクガクと震え出した。

“あー、私はあれほど書きたいと思っていたあの本を書き終えられずに、このまま死ぬのか”

 そう思った。無念で仕方なかった。
 そして「神様、助けて!神様、お願いだから助けて!!」と、次にはこの言葉を声をあげ祝詞のように繰り返していた。
 
 まったく身内に対しては薄情な話だが、最初に思ったのは連れ合い(夫)や家族のことではなく仕事のことだった。本にしたいやりかけの少年事件の原稿がまだ残っていた。実は去年の十二月中にある出版社で原稿をみてもらう予定だったのだ。
 そしていざ死を目の前にして助けを求めたのは自分を産み育ててくれた、最も近しい存在の親ではなく、なんと神様。宗教やシャーマニズムに関心はあるけれど、「神様」というより「グレイトサムシング」ならなんとなくその存在を感じられるような気がする、といった程度の人間だ。そんな私がいざ窮地に陥った時、神様にすがりつこうとは、自分で自分に驚いた。
 それから間もなくして揺れがいったんおさまった。助かった!と思った私は「神様!ありがとう」とつぶやいていた。そして情報を得るため机の下からなんとか這い出してテレビをつけ、親や連れ合いに電話をとり安否確認を始めたのだった……。


■ここを逃げてどこへ行くのか

 あれから半年が経った。
 今ではなんとか日常生活を取り戻している。これまでしばらく手をつけられなかった、従来のテーマにもまた取り掛かり始めた。
 まだ地震や余震が続き、福島での原発事故も収束してはいない日本を僅かな間でも留守にするのは気がかりであったが、先日海外出張にも行ってきた。3・11からも相変わらず東京で暮らしている。
 だが報道する立場の者としては大変お恥ずかしい話だが、冒頭の東日本大震災、その後の福島第一原発事故をきっかけに、それから数日間は東京を逃げ出そうと考えていた。

 「メルトダウン(炉心溶融)は時間の問題だ」と主にネットで情報を得ながらそう思った。東海地震がいつ来てもおかしくない話も現実味を帯びていた。自分の中では報道以前の「生き死に」の問題だった。

 身近なジャーナリストの中には地震があって数日後には故郷に帰った人もいた。逆に事故があってすぐ現地入りした人もいた。私はそのどちらもできないまま東京にいた。
 職責と特に福島の人たち対する申し訳なさ、原発問題にしっかり取り組んでこなかった自責の念などが心を重くした。
 それでも「とりあえず東京を出よう」という考えが強かったが、東京と神奈川には親たちがいた。私と都内のアパートで暮らす連れ合いがいた。親たちも連れ合いも相変わらず働き続けていた。
 「原発事故で被曝する可能性があるからとりあえず逃げた方がいい」と親や連れ合いを説得しようとするが、「そんなに危ないならお前だけ逃げればいい。俺は仕事があるから仕事のあるうちはこっちで働くよ。働かなきゃ食えない。お前も養えない」と言われた。
 また親たちからは「被曝するなんて大げさだ」「あれは福島での話」などと言われ笑われた。特に自分の父親からはまるで狂人扱いだった。
 親たちが動かなければ彼らを残していくことはできない。もちろん連れ合いもだ。
 「ここに残るしかない…」と思った。

 しかしそれはどちらかと言えばネガティブで悲壮な決断だった。それとは全く逆の方向性で私に東京にいる腹をくくらせる言葉があった。それは私を大げさだと笑いもしたが、連れ合いの父親による言葉だった。 
 余震が続く中、日中一人でアパートの自宅にいるのが不安で、連れ合いの実家に結果的には一日だけ身を寄せた。3・11から数日後のことだ。
 相変わらず原発が危ないから逃げたほうがいい、といったことを連れ合いの父親に言うと、「ここを逃げてどこへ行くの?」と冗談めかして言われた。その言葉の裏には、「そんな場所、俺たちにはどこにもないでしょ」といった意味合いが込められているような気がした。
 それは、自分の父親から受け継いだ土地を守り、そこで家族経営の中華料理屋を営んでいた連れ合いの父親らしい言葉だった。食材がなくなるまで店を開き続けるとも言っていた。フライパンをふるい続けるその姿を見つめながらようやく「ハッ」と我に返ったのだ。

「私には私の仕事がある。やらなければならない役目がある」

 今自分がここを逃げ出すわけには行かない。まして私は東京生まれの東京育ちだ。ここは自分の古里じゃないか。自分の仕事に戻ろう、と思った。

 それで連れ合いの実家に身を寄せるのは一日で中止して、翌日にはまた都内の自分たちのアパートに戻った。その後、誰に頼まれたわけではないが、自分にできることとして、ノートとペン、カメラを持ち、都内の避難所通いを始めた。そしてツイッターに彼らの声を流し始めた。
 ツイッターはミニブログと言われることもあるが、ブログよりもより簡単な操作で大多数を対象に情報発信できる。出版社や雑誌社に企画を通すには時間もかかるし、返事を待っていて取材対象である人々を取り巻く状況が変わってくることもある。
 金には一銭にもならないが、生きるか死ぬかと思えるこうした状況の中、悠長に企画を通すなんてことをやっている時間もヒマもない心境だった。それでとりあえずの情報発信手段としてツイッターを利用することにした。とにかくささやかなことでも、ルポライターとして自分にできることをなんでもしようと思った。


■「大いなる勘違い」と「目の前の現実」と

 思えば私のルポライターとしての原点は、野宿生活者襲撃事件の取材だ。
 事件は一九九五年十月十八日、大阪の道頓堀川で起こった。当時の報道では、野宿生活者が若者らにより襲撃され、川に投げ落とされたというものだった。
 テレビのニュースでそのことを知り、いてもたってもいられなくなり取材しようと思い立ったのがその始まりだ。目の前の現実に突き動かされたのだ。

 当時、私はいわゆるフリーターの走りだった。大学卒業後、アルバイトをして金が貯まれば海外を放浪する生活を続けていた。
 主にアジアを歩き回っていた。
「どこから来たんだ?」
「日本だよ」
「ニッポン、ナンバー1!」
「ホンダ、トヨタ、グー」
といったことを言われた。人々は「日本」という言葉に目を輝かせた。
 だがそんな自分の国、日本で現実はどうか。アジアの国々で見かけたようにやはり日本にも野宿生活者がいた。なぜそんなに豊かと言われる自分の国で野宿生活者が生まれるのだろう。食べ物や住まいに事欠き、雨の日も風の日も路上にダンボールを敷いて寝ているような、そんな生活を強いられている人たちが、またなぜ若者によって殺されなければならないのだろうかと思った。
 とりあえず文章を書くのは当時は、わりに得意だったため、「自分にできることはこれしかない!」と思った。また、あまり野宿生活者に関するルポも発表されていなかった時代で、「これをやるのは私しかいない」とも思った。こうした「大いなる勘違い」とこのような事件が起きてしまった「現実に突き動かされる」ようにして私の
ルポライター人生が始まった。

 今回は、あの頃と違い、多少は取材経験を積んでいる。しかし被災地や被災者への経験はあの頃と同じゼロだ。それでも取材しようと思ったのは、やはりそこに突き動かされる現実があったからだ。遅まきながらも自分の職業的役目への自覚もあった。
 都内で避難所への取材を始めながら、被災地の取材も模索した。幸いにも同行取材という形で、4月上旬、宮城県の岩沼市にも入れ、さらに6月には福島県の伊達市にいる友人の協力で、福島への取材にも入ることができた。今は昔のような「大いなる勘違い」はほとんどない。「自分にしかできない」という気負いというか情熱はほとんどないが、自分のできることを一つでもルポライターとして書いていければいいと思っている。


■あの日を境に世界は変わった

 ところで『週刊石のスープ』(当時はこの週刊誌の名前もまだ決まっていなかったが)の話は、確か一緒に同メルマガをやる渡部真さんを通じていただいたような気がする。
 以前なら有料メルマガをやろうとはなかなか思わなかった。一人でやるにはまず何より意志の強さと継続力が必要だ。それに有料となると、みなさんがお金を出したくなるような記事を書かねばならない。取材して執筆はできても編集経験がない。魅力あるメルマガを一人で作れるかどうか自信がなかったのだ。今回の場合、一人じゃなく何人かで持ち回りでやれるのと、執筆のペースがゆるやかそうだった。「それならなんとかできるかな」と思ったのだ。そしてやはり何よりあの東日本大震災があったことが自分の中では大きいように思う。

 「今はたまたま運よく生きている。いや、生かされている。だけどこれから一秒先はわからない。だから今を大事に生きよう」ぐらいにあれから思っている。
 3・11を境に私の中では世界がすっかり変わったのだ。言ってみれば、これまで色彩鮮やかなカラーの世界からグレーといった単一色の世界に変わった感じ。それぐらいの大転換が起こった。
 「今これから先」のことは、もちろんそれ以前だってわからなかった。ただこのまま今の生活が続き、まあ日本人の女性の平均年齢である、八十歳代ぐらいまでは生きられるんじゃないかと漠然と思っていた。そういう幻想の上にあぐらをかいて暮らしてきた。
 でももうあの日からそうはいかなくなった。原発を世界中で抱えて生きていることを自覚した。時限爆弾を胸に抱えているようなものだ。しかも福島での原発事故はまだ収束していない。原発労働者の人々が命を削って今のこの以前と変わらないように見える「日常」を必死に守ってくれているだけのことだ。日本は地震大国だということを身を持って痛感もした。もちろん人間いつ死ぬかわからないのはわかっているけれど、それにもましてわざわざその死期を早めることを自ら人為的にやっているのだとも思う。

 こうした中で、自分が取材したものの発表の場があるというのはとてもありがたいことだと感じている。今これから先はどうなるかわからない。わからないからこそ今生きている自分がこの社会や私たちを生かす自然、地球に役立つことを何かしらやっていこう。そんな思いでいる。私の場合、野宿生活者に関する社会問題やあるいは沖縄、奄美、韓国のシャーマンの自然や人々との関わりなどに関心がある。
 「どうしてホームレスとシャーマンが結びつくの?」と言われることもあるが、私の中では違和感なく一つの線でつながっている。野宿生活者たちが生み出されるその社会と対極する位置にシャーマンが存在する地域共同体社会と存在感ある自然があるように思っている。
 そこら辺は、またおいおい取材を通じ明かしていければいいと思う。もちろん本来のテーマ以外にもジャンルを問わず、いろんなことを取材しみなさんに紹介していきたいと思っている。
 どうぞお楽しみに!


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西村仁美 にしむら・ひとみ
1968年、東京生まれ。フリーターをしながらアジアを放浪。のち、ルポライター兼フォトグラファーに転身。主に野宿生活者<や少年>に関わる社会問題、を中心に取材。奄美や沖縄、韓国のシャーマンの自然観や世界観、チベットの精神文化などにも関心があり、取材ジャンルの幅を近年さらに広げつつある。
著書に『悔 野宿生活者の死と少年たちの十字架』(現代書館刊)『「ユタ」の黄金言葉』(東邦出版刊)『格安! B級 快適生活術』(共著/ちくま文庫)など。
[Twitter] @ruri_kakesu
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渋井哲也「東日本大震災を取材するまで〜自己紹介にかえて〜」《無料公開中》 



週刊 石のスープ
創刊記念特別号[2011年9月18日号/通巻No.2]

今号の執筆担当:渋井哲也




■「石のスープ」への思い入れ

 はじめまして。フリーライターの渋井哲也です。このメールマガジンのタイトルである「石のスープ」の物語をご存知でしょうか。
 すでに、メルマガの紹介サイトでも紹介されていますが、ここに引用しておきます。


 とある村に、お腹をすかした旅人がやってきた。村人たちに食事を与えてくれるように頼んでみたが、自分たちの大切な食料を分ける事は出来ないと、断られてしまう。一度は引き下がった旅人だが、傍の石を拾い、再び村人たちと交渉した。
「故郷から持ってきたこの石を入れると、とてもおいしいスープができるんです。鍋を借りてお水をいただくだけで結構なのですが……」
 もちろん誰も信じなかったが、水と鍋だけならと村人の一人が半信半疑で旅人に水を与え鍋を貸してくれた。さっそく旅人は石を煮始めた。村人たちは、この奇妙な料理に興味津々。暫くして味見をしている旅人に、一人の村人がスープの出来を尋ねた。
「この石は、すでに沢山のスープを作り過ぎていて、少し味が薄くなってしまっています。塩と胡椒があれば、もっとおいしくなるんですが……」
 すると別の村人が、塩と胡椒だけならと旅人に与えてくれた。同じ要領で、野菜や肉を村人たちから少しずつ分け与えてもらった旅人は、見事においしいスープを作り上げた。
 スープの正体に気づかず、おいしい石のスープに感心する村人たち。スープで満腹になった旅人は、お礼だからと言って村に石を与え、また旅立っていった。


 この物語を知ったのは、大学1年生のころです。この物語を教えてくれたのは、同じサークル(社会福祉研究会)の同級生でした。最初に読んだ時には「詐欺じゃねえか?」と思ったのですが、これは、知恵をめぐる問題でもあるし、協力を暗示している内容でもあります。

 このメールマガジンを4人でやろうという話が出たとき、私はこの「石のスープ」の物語を思い出し、提案しました。


■フリーになる前は、地方紙の記者だった

 私は1993年4月、長野県諏訪市に本社がある「長野日報社」に入社しました。同社は前身が「南信日日新聞社」です。夕刊紙だったのですが、私が入社する前の92年、題字と社名を変えて、さらに朝刊に移行したのです。その際、同社が出していた、伊那日報、駒ヶ根日報、箕輪日報、南箕輪日報、辰野日報、木曽日報、塩尻日報などのローカル紙を合併、統合しました。こうして、中南信を購読エリアとする新聞ができたのです。

 諏訪地域は新聞が多い地域で有名でした。ほかにも諏訪エリアで発行している「岡谷市民新聞社」、諏訪市のみの夕刊紙「諏訪毎夕新聞」(2004年に廃刊)、下諏訪町のみ発行の「湖国新聞」(2005年に廃刊)があります。
 もちろん、長野県自体が新聞王国です。全県紙は「信濃毎日新聞」です。全県紙の登場は、戦時下の一県一紙体制のもとで実現しました。もともと「信濃毎日」は長野市のローカル新聞(長野新報)でした。しかし、新聞統合令で、長野県の地域紙が統合されていきます。
 長野県の場合、範囲が広く、新聞の数も多かったので、3次統合までありました。長野日報社は、もともと「諏訪新報」でした。その後、信濃新聞と合併し、「南信評論」となっていたのです。そして戦時下の新聞統合では「南信毎日新聞」として存続していましたが、1942年に「信濃毎日新聞」に統合されるのです。

 こうした歴史のある長野県の新聞社です。私は新聞社の歴史などに学生時代はまったく興味がありませんでした。しかし、長野県に行くと、「信濃毎日」の信頼度の強さ、行政との密な連携を意識せざるを得ませんでした。「長野日報」でスクープ的な取材をしていると、その情報が「信濃毎日」に連絡されることが多く、結局、先に追っていたのに、紙面では同じ日に掲載されることもありました。

 なぜ、そんなことが起きるのか。不思議に思っていました。
 それをひもといたのは戦時下の新聞統合でした。新聞統合問題に興味を持ったのは、「戦後50年企画」で「長野県下の中国人、朝鮮人の強制連行・強制労働」を調べていた時でした。戦争中、様々な組織が戦争に利用されていきますが、新聞社もそうでした。その体質を引きずっているように思えたのです。


■長野五輪や松本サリン事件報道への疑問

 そして1998年に「長野五輪」があります。この報道を巡っても、権威・権力に対して批判的な態度を取れない体質が出ていました。長野五輪招致委員会や長野五輪組織委員会には、各メディアも入っているために、委員会がしていることを批判しにくい環境にありました。当事者になってしまうからです。ここでは、その「おか
しなこと」は触れません。私が参加した「長野五輪反対デモ」は、取り上げたメディアはありません。
詳しくは、『オリンピックは金まみれー長野五輪の裏側』(江沢正雄著/雲母書房/1992年2月/)をお読みください。

 そうしたメディアの体質に対して疑問を感じることが、その前にも起きていました。
 1994年6月27日に起きた「松本サリン事件」です。
 化学兵器にも利用される神経ガスのサリンが松本市内で散布されるという事件でしたが、第一通報者の河野義行さんが「犯人ではないか」という扱いを受けることになります。
 この時は、逮捕されず、弁護士が早い段階でついたのですが、それが余計に「どうしてこの段階で弁護士をつけるのか?」「怪しいんじゃないか」という一般市民の偏見を助長させていきます。その偏見を利用しながら、警察は「河野に年越しそばを食わせるな」を合い言葉に、年内決着を決意していたとも言われています。

 こうした警察の体制や一般市民の偏見をメディアは十分にチェックできずにいました。
 検証の役割を果たしたのは、松本美須々が丘高校放送部でした。検証番組「テレビは何を伝えたか」は反響を呼び、「第43回NHK杯全国高校放送コンテスト」で、ラジオ番組自由部門優勝(文部大臣奨励賞)を獲得。NHKラジオ第2放送で全国放送されました。
 1995年9月から取り組み、ラジオ版が完成したのは翌96年7月でした。テレビ版の作成は97年に作成することになり、98年1月、「第20回東京ビデオフェスティバル」で大賞を受賞したのでした。

 本来、メディア自身が検証番組を作るべきですが、高校の放送部がしたことがすごいと思います。詳しくは、『ニュースがまちがった日ーー高校生が追った松本サリンン事件報道、そして十年』(林直哉・松本美須々ヶ丘高校放送部著/太郎次郎社エディタス)に載っています。
 その後、その検証番組をもとに映画『日本の黒い夏ー冤罪』(熊井啓監督)が制作されました。

 松本サリン事件や長野五輪を直接取材したことはありません。私は当時、木曽支局(現在は支局が閉鎖)の記者でした。
 新聞社は担当部署があります。分かりやすく言えば、松本サリン事件は長野県警と松本署の担当記者が書くことになります。長野五輪は本社と長野支社の担当記者が書きます。事件をめぐる捜査に疑問があっても書くことは許されません。また、長野五輪でも、私自身はスポーツは好きなこともあり、出場選手の取材はしましたが、新聞記者としては組織委員会や運営上の問題は執筆していません。


■もう一つのメディアへの指向性

 いろんないらだちがありました。もし、そのとき、東京のメディアに属していたら、新聞記者であっても、雑誌で匿名記事を書こうとしたかもしれません。「私が書いた」というよりも、「何を書くのか」が重要だと思ったからです。

 私が入社した1993年頃といえば、『週刊金曜日』が発刊されるた時期です(1993年11月創刊)。各地に読者会ができ、地域から盛り上げて、オルタナティブなメディアを作って行こうというムードがあった時です。長野県でも各地に読者会ができ、私は、諏訪、伊那、松本、長野の読者会とつながり、いろんな情報発信をしようとしていました。その後、社員時代に『週刊金曜日』で長野五輪のことを執筆することにもなります。

 当時の出来事として、長野、松本、諏訪、伊那、飯田の読者会で共同で出した「長野県拡声器条例案への反対声明」がありました。この案文を私が書きました。
 デモや街頭活動の際、拡声器などを使うことがありますが、一定の音量が出ると規制対象になります。私は表現の自由、集会・結社の自由を脅かすものとして、反対をしていました。そのため、つながりのある読者会を巻き込んでなにか反対声明が出せないか。そして、それを『月刊金曜日』(同年7月〜10月、週刊になる前に創刊準備号として月刊を発行した)に掲載できないかを考えていました。

 長野県は、『金曜日』の編集委員の1人、本多勝一氏(元朝日新聞)の出身地です。本多氏は故郷の長野県を大事にしていることが著書でわかりますし、読者会が主催するイベントにも参加してくれていました。また、当時の編集長・和多田進さんも熱心に長野県の読者会に来てくれていました。そのため、当時の読者会の中では、比較的、編集部とのパイプが強かったほうだと思います。

 こうして拡声器条例案の反対声明の掲載はすぐに実現しました。

 ただ、オルタナティブなメディアを作るのは、産みの苦しみがありました。読者会の仲間が自殺をしたのです。詳しいことは書きませんが、彼なりに、今の生活とあるべきメディアの狭間で葛藤していたのです。


■震災と報道 〜阪神大震災〜

 こうした一連のことは、「このまま、新聞社にいていいのか?」という疑問を持たせました。そんな時、1995年1月17日、阪
神大震災が起きます。
 私はその日、遅く起きました。テレビを付けっぱなしで寝てしまった私は、目を覚ますと、テレビでは津波注意報の発令と出ていました。ご存知のように、長野県は山国です。津波は関係ありません。どこで地震があったのかニュースを確認する時間もなく、支局に向かいました。
 支局に到着すると、先輩記者たちはテレビに釘付けでした。

 私 「どうしたんですか?」
 先輩「神戸で地震だよ」
 私 「神戸だったんですか。でも、そんなに大きいんですか?」
 先輩「朝のニュース見てないのか?」
 私 「寝坊してしまったので」
 先輩「ラジオは?」

 そう聞かれましたが、私が当時住んでいた塩尻市から木曽福島町(現在の木曽町)まで、山奥なので、ラジオはまったく入りませんでした。そのため、ラジオも聞いていません。状況が飲込めずにいた私はテレビを食い入るように見ていました。
 テレビを見ていた私は、一刻も早く現場に行きたいと思いました。

 一週間後、私は神戸に行きました。
 長野県と直接関係のない地震ですから、出張扱いにはなりません。行って何ができるかわからないと思っていました。仕事は休暇にしていますから、取材をしようが、ボランティアをしようが好きにやれます。
 最初、ボランティアをしようと、どこかのボランティア団体の事務所に向かいました。現在では、災害ボランティアは窓口が統一され、社会福祉協議会が主導で、災害ボランティアセンターを開設したりします。当時は窓口はバラバラでしたが、それでも、それなりにニーズを把握していたように感じました。ただし、そのボランティア団体事務所に行っても、2〜3日しか滞在しない私は、ただ一か所を動いて、瓦礫の撤去をすることになってしまいます。

 私のすべきことは何か、考えました。ボランティアはものすごく来ている時期です。私1人がボランティアをしたところで、やれる範囲は決まっている。ならば、私は取材記者だという原点に戻り、取材をしようと決意しました。
 取材をするとしても、最低でも長野県との関連を見つけなければなりません。そこで、事前に情報として頭に入っていた長野県の医療支援本部があった「長田高校」に行くことにしました。そこで、2日間泊まって、避難所の人たちと交流し、話を聞くことができました。これが私の災害報道の原点となったのです。

 その後もことあるたびに、阪神大震災関連の取材をしました。ただ、後悔していることがあります。取材で小学校2年生(当時)の女児と出会ったのですが、彼女の「その後」を追いかけることができなかったことです。
 手紙のやりとりはしていましたので、連絡を取ろうとすることができるでしょう。しかし、日々の仕事に目を奪われ、継続取材ができなかったのです。震災発生日となる1月17日には、毎年のように思い出してはいたのですが……。


■東日本大震災の発生

 そして、2011年3月11日、東日本大震災が発生します。
 私は当時、駒沢大学で講演の仕事がありました。当初は3時過ぎに家を出ようとしていましたが、準備が思ったよりも早くできたために、2時30分過ぎに家を出たと記憶しています。歩いていると、缶コーヒーが呑みたくなり、自動販売機で買いました。そのおかげで、信号が赤になり時間のロス。青が変わり、横断歩道をわたり終え、少し経つと、「ゴォゴォゴォ」と地響きがしました。

 「え?もしや、トラックが暴走しているの?」

 と思い、後ろを振り返ると、誰もいません。そのうち、立っている地面の揺れを感じました。周囲のビルはとても揺れていました。しかし、私は、「あ、大きい地震だ。すぐに終わるだろう」と思っていました。大きな揺れが終わったとき、たまたま近くにいた消防車に乗っていた消防士が、

 「大丈夫ですか?!」

 と叫んでいます。何事かと思って、進行方向を向きました。すると、近くのお墓の側面の壁が崩れているのが分かりました。同時に、思ったことがあります。缶コーヒーを買わないで、もしそのまま歩いていたら、ちょうど、崩れた辺りを歩いていたかもしれないと。

 しかし、私はそれでも、「こんな地震はよくある程度だ」と思うことしかできませんでした。こうした感覚は「正常性バイアス」と呼ばれています。明らかな危機的な事態になったとしても、危機という信号が届かず、日常生活の中でしか考えないのです。そのため私は一旦は歩みは止めたものの、再び、駅に向かおうとしました。周囲のビルからは多くの人が下りて来ていました。

 「大げさだな」

 まだそんなことを思っていました。ただ、あまりにも多くの人がビルから出てくるのを見て、もしかすると、「私が感じていた地震
の程度よりも、大きい地震だったのか?」と思いました。
 携帯電話を見ても「圏外」の表示ですが、そんなことはよくあることと考えていたところ、ビルから出て来た人が、

 「また揺れてる」

 と言いました。そんなに揺れているのなら、私の部屋は大丈夫か?と思い、早めに家を出たので、一旦引き返そう!と思ったのです。家に帰ると、テレビやパソコンは壊れていませんでしたが、書類や書籍が散乱していました。あとで分かることですが、私が住む部屋の上階(2階)では、テレビが壊れたようです。

 片付けが終わると、いったいこの地震はどこまで被害が出たのかを知りたくなり、自宅のパソコンでインターネットにつなぎました。震源は宮城県沖。地震の規模はマグニチュード8(のちにM9の訂正)。最大震度は7。東京で震度5弱でした。
 宮城県の知人に電話をしてもつながりません。そこで、携帯電話のメールと、mixiのメッセージ、Twitterのダイレクトメッセージで安否確認をしました(返事が来たのは3日後でしたが……)。


■自分のできること探し

 次にしたのはTwitterやmixiなどでの情報収集でした。
 特にTwitterでフォローをしている人たちは首都圏在住者が多く、帰宅難民となっている状況が分かりました。帰宅難民となって職場から自宅まで歩く人が多いということがわかりました。そのため、休憩スポット、避難所などの情報が流れ始めていました。正確な情報かどうかわかりませんが、精度の高そうな信憑性のある情報をRT(リツイート:誰かのつぶやきをコピーして、つぶやくこと)しました。

 夕方4時を過ぎていたと思うのですが、Twitterのつぶやきで誰かが「フジテレビ 津波」と書いていたのを発見しました。あわててテレビを付けました。仙台だったかどうかわかりませんが、広大な農地を津波が襲っている映像でした。これは大変なことになる。しかも復興までに長い時間がかかる、と直感的に思いました。そして、この震災を取材しなければ、と思いました。

 ただ、私は自家用車がありませんし、都内ではすでに渋滞が起きていました。速報は大手メディアには負けてしまう。現場で写真を撮るとしても、高性能の望遠レンズが必要になるはずですが、そこまでは用意できない。そのため、すぐに動くことを躊躇しました。震災直後の被災地に向き合う覚悟がなかったとも言えるかもしれません。

 私ができることは何かを考え、震災直後に様々な心理的なケアが必要になると思い、ソーシャルメディアに専用のコミュニティを立ち上げました。

【twitter】
心理面や福祉面で、相談できる精神科医、カウンセラー、社会福祉士、ライター、ジャーナリストのリスト
http://twitter.com/#!/shibutetu/mental-list/members

【mixi】
災害と心のケア@東日本大震災
http://mixi.jp/view_community.pl?id=5523303

【Gree】
東日本大震災と心のケア
http://gree.jp/community/2595470

【Facebook】
災害と心のケア、PTSD
http://goo.gl/q7JH9

 こうしたコミュニティを作り、少しでも不安を解消できる場、そのための情報交換をしようと思ったのです。

 また、帰宅難民のために、新宿・歌舞伎町で私と友人が共同経営している「Bar はな」を帰宅難民のために開けておこうと思い、店に行きました。
 行ってみると、ある方向だけの酒瓶が落ちて割れていました。その片付ける様子は、動画機能のあるアプリ・ツイットキャストをい使ってインターネット流していました。しかし、結局、お客さんは来ませんでした。あとから聞いた話では、「『はな』のほうが地震で危ないんじゃないか?」と思っていたそうです。それはそうかもしれません。「はな」の建物は、確認できる記録では「昭和39年」には存在していたそうで、第2次世界大戦の前に建てられていたという話もあります。そんな建物ですが、結果として、地震には強かったようです。


■被災現場取材への決意

 翌12日、私は、所属する「自由報道協会(仮)」の事務所に行くことにしました。私が事務所に行ったのは、何ができるかを考えるためでもありましたが、もしかすると、私自身の不安解消のためだったのかもしれません。
 事務所には、すでに、数人のメンバーがいました。会見に出かけるために出入りをするメンバーもいました。私はみんなの動きを見ていました。と同時に、被災地にはいつごろ行こうか、行けるかを考えていました。
 
 そのまま13日の朝まで事務所で過ごし、私は経済産業省の原子力安全・保安院の会見に行くことにしました。そこでは速報メディアの記者やフリーランスの記者が詰めていました。記者がいらだっていることが分かりました。東京電力の福島第一原発の事故があったにもかかわらず、説明が論理的でもないし、不明快だからです。

 私も質問をしてみました。発表された資料によると、被曝した住民がいるとあり、人数も書いてありました。しかし、一方は被曝量が書いてあるのに、もう一方は書いてないのです。すると、被曝量の書いていないグループは、検査をしていなかった、というのです。では、なぜ検査をしていないのに、被曝したとわかるのか。どんな状況だったのかをただしました。しかし、回答は「わかりません」を繰り返すのみでした。

 新聞記者だった私が思っていたことは、現場には実は情報が集まらない。集まるのは現場ではなく、対策本部だ、ということを思っていたことを思い出していました。事件取材などでは、そういうことがあり得るのです。しかし、災害や原発事故は本部には情報がなかなか届かない。これは、今回の震災を取材しての実感です。「わからない」の繰り返しに私は焦りといらだちという気持ちがわいてきました。そして、「ここにいては何もわからないかもしれない」と思ったのです。
 
 こうしている間に、「ビデオニュース・ドットコム」のビデオジャーナリスト神保哲生さんが福島入りをしたという話が耳に入りました。やはり、被災現場に行かないと、この震災は分からない、と思うようになっていきました。そういう思考をしていた時に、先ほどの保安院のような会見ではらちがあきません。被災現場に行くしかない。

 ただ、ガソリン不足です。しかもレンタカーがなかなか借りられないという情報も入ってきました。これは自家用車を持っている誰かにお願いをするしかない、と思ったのです。すると、編集者の渡部真さんが自家用車を出すという申し出をしてくれたのです。こうした足の確保ができた私は、さっそく被災現場を取材する準備をすることになったのです。

*  *  *  *  *  *


 この連載では、震災取材のこと、私がライフワークとしている、若者の自殺、自傷などのメンタルヘルス、ネット・コミュニケーション、サブカルチャー、性をめぐる様々な事象について、書いていきたいと思っています。


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■渋井哲也 web連載
「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」

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渋井哲也 しぶい・てつや
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーション等に関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。
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category: 渋井記事

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渡部真「相馬市の中学校の相談室から 〜自己紹介にかえて〜」《無料公開中》 



週刊 石のスープ
創刊記念特別号[2011年9月15日号/通巻No.1]

今号の執筆担当:渡部真




 東日本大震災の最初の地震が発生してから半年が経ちました。

 「週刊 石のスープ」はこの震災半年というタイミングで創刊したばかり。今月は、来月以降に予定している通常の連載とは違い、筆者達の自己紹介などを順次お送りする予定です。ということで、今回は僕、渡部真が担当しています。

 2011年3月11日14時46分、僕は自宅の仕事場で作業をしていました。
 Twitterのログなどで確認すると、東京ではっきりと地震を感じたのは1〜2分後だったようです。遠くから微かながら力強い揺れを長く感じ、徐々に大きくなっていき、家中の棚やタンスなどが倒れんばかりに揺れ、棚と壁とがぶつかる大きな音が何度もして、書類、食器などたくさんの物が散乱しました。
 その後、家族の安否確認や、進めている仕事の連絡などを取りつつ、Twitterで流れてくるタイムラインの情報を精査しながらリツイートしたり、NHKなどから流れてくる情報を、Twitterやメーリングリストなどで「ハブ」になって伝えたりして過ごしました。

 皆さんは、あの時、どんな時間を過ごしていたでしょうか?


 翌日、僕が所属しているジャーナリストの団体「自由報道協会」の事務所には、フリーランス、雑誌、ネットメディアなどのジャーナリスト達が集合していました。東京電力や原子力安全・保安院、政府の記者会見などに参加するため、その待機場所として事務所を開放していたのです。この日ばかりは、霞が関や永田町の周辺に事務所があるありがたみを実感しましたね。

 フリーランスライターの畠山理仁さんなどが事務所を出入りして記者会見に向かう中、僕は事務所で待機し、みんなの食料を調達したり、情報収集して伝えたりしながら、時おり保安院の会見などにも参加。
 すでにコンビニエンスストアでは、食料不足が始まっていてオニギリなどが一斉に棚から消えてしまっていました。そのため、フリージャーナリストの江川紹子さんは、みんなの食事を用意するため、何度か自宅に戻ってオニギリを大量に作って来てくれたり、逆に、急にニコニコ生放送に出演が決まった江川さんを畠山さんが車で送ったりと、事務所に集まったみんなで協力し合いながら、日本中が混乱する12日を過ごしていました。

 NHKやニコニコ生放送を見ながら、フリーライターの渋井哲也さんと話していた時だと思います。ビデオジャーナリストの神保哲生さん(ビデオニュース・ドットコム)が、すでに11日から被災地に向かい、12日の夜には一度東京に戻り、福島県相馬市の様子を伝えているという情報が入って来ました。僕にとって神保さんは以前から尊敬するジャーナリストの一人。「さすが神保さんだなぁ」と素直に感心しました。それと同時に、自分たちが東京にいて会見場にいても、被災地で何が起こっているのか、さっぱり実態がつかめないことにフラストレーションが溜まっていました。
 12日は、東京電力福島第一原発が爆発し、数人の被曝者が出たと保安院が発表した日です。僕も保安院の会見で質問などをして取材していましたが、1〜2時間おきに開かれる会見のたびに保安院の発表が違うのです。しかも、会見で説明する保安院の担当者達も、現地から入ってくる情報を正確に認識していないために、こちらの質問にはほとんど答えられない状態でした。政府も、東電も、そして被災している現地も、相当に混乱しているんだろういうことが容易に想像できました。

 情報が混乱している中で、一緒に事務所で待機していたフリーライターの渋井哲也さんが「こんな所にいても、あんまり意味ないなぁ。現地に行きたいけど、足(移動手段)がないからなぁ」とポツリ。たしかに、当時は電車も動いていないし、高速道路も遮断されている状態でした。東京にいるフリーランサーの中には、車を持っていない人もたくさんいます。カメラマンなどは、機材を運搬するために車を持っている人たくさんいるんです。一方、ライターは荷物が少ないから、むしろフットワークを軽くするという意味でも、東京では車じゃない方がいい場合が多い。しかし、今回の取材に車は必需品でした。

 だったら、移動手段のないフリーランサーを僕の車で現地に運んで後方支援をしようか?

 僕自身は、速報メディアにはほとんど関わっていないので、現地の様子を取材する必要はありませんでしたが、その代わりに、かなり悪条件でも車を運転する技術と、何時間も運転し続ける体力の自信はありました。
 自由報道協会をはじめとしてフリーランサーに声をかけたところ、渋井さんや数名の記者が一緒に行きたいと返事をくれました。そして、地震から4日後の3月15日、茨城県に向かってオンボロ車で東京を出発。

 こうして、僕の被災地取材が始まりました。

 前述したとおり、この時の僕は自分が取材することよりも、フリーランサー達の後方支援をするつもりでした。ですから、長くても1か月くらい、何度か東北まで往復する程度だと思っていて、まさかこれほど取材を続けることになろうとは……


 今、この原稿は、継続取材している福島県相馬市のある中学校の生徒相談室で書いています。

 校長先生のお話を聞くため待っているのですが、もう少し待っていて欲しいということで、昨日までに書きかけた原稿を仕上げています。

 全校生徒の100人足らずの小さな学校。
 生徒達の合唱が聴こえてきます。
 廊下を通る顔見知りの生徒達が、久しぶりに会う僕に「お久しぶりで〜す」と笑顔を見せてくれています。
 僕は、フリーランスになってから学校取材を続けてきましたが、学校のまったりした雰囲気が好きです。自分が学生の時は学校なんて好きじゃなくて、サボってばかりだったんですけどね。

 そんな僕は、これまで災害取材なんて関わってこなかったし、今回の大震災でも、取材するつもりも覚悟もなかったんですが、すでに取材日数は述べ50日を超え、取材のために走った走行距離は2万キロを超えました。

 どうしてこんなに取材することになったか、その事はおいおい書いていきたいと思います。


 今後の連載では、東日本大震災の取材告、他の取材のエピソード、出版フリーランサーとしての日々の出来事などを書いて行く予定です。

 次回に僕が担当する記事では、来月発売予定の新刊「自由報道協会が追った3.11」の制作苦労話……基、制作秘話を書くつもりです。
 記事には現れないエピソードをご紹介し、本を読んだ方が、さらに興味深く記事を読めるようにしたいと思っています。

 今後ともぜひお楽しみに。


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渡部真 わたべ・まこと
1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。東日本大震災以降、東北各地で取材活動を続けている。
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(2011.9.8 創刊)
(2012.10.20 リニューアル) 月刊3号配信


フリーランスのライターやジャーナリストが、共同発行しているメールマガジン。とくに2011年3月11日に起きた東日本大震災を取材し続ける、渋井哲也、村上和巳、渡部真の3人をレギュラー執筆陣として、様々なフリーランサーが参加しています。震災の取材報告を中心に、取材を通じて伝えたい事はもちろん、取材をする中で感じた素朴な気持ち、他では書けないこぼれ話など、フリーランサー達の「生の声」をお届けします。一癖も二癖もあるフリーランサー達が集まると、いったいどんなスープが出来上がるでしょうか……。

2011年9月に「週刊」として創刊しましたが、現在は、毎月3号をベースに配信しています。そのため「元週刊 石のスープ」となっています。3人のレギュラーメンバーが毎月の取材報告をお送りするほか、スポットメンバーや、ゲストのフリーランサーが増刊号をお送りしています。
文字を中心としたテキスト版、ブログ版のほか、写真を中心とした電子書籍版も定期読者に向けて発行しています。また、取材報告のイベントや、生中継番組も年に数回、石のスープの特別編としてお送りするなど、様々なメディアを通じて情報発信しています。

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〜〜〜〜〜〜〜【執筆陣】〜〜〜〜〜〜〜


連載タイトル:「『一歩前』でも届かない」
渋井哲也 
(しぶい・てつや)

1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。ビジネスメディア「誠」(http://bizmakoto.jp/)で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。
著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。
てっちゃんの生きづらさオンライン http://shibutetu.jugem.jp/
Twitter:@shibutetu


連載タイトル:「我、百文の一山なれど」
村上和巳
 むらかみ・かずみ

1969年、宮城県生まれ。医療専門紙記者を経てフリージャーナリストに。イラク戦争などの現地取材を中心に国際紛争、安全保障問題を専門としているほか、医療・科学技術分野の取材・執筆も取り組む。著書に「化学兵器の全貌」(三修社)、「大地震で壊れる町、壊れない町」(宝島社)、「戦友が死体となる瞬間〜戦場ジャーナリスト達が見た紛争地」(三修社/共著)など多数。
WEB KAZUMI MURAKAMI
Twitter:@JapanCenturion


連載タイトル:「勝手気ままに〜取材時のこぼれ話や裏話など〜」
渡部真
 (わたべ・まこと)

1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。
著書に『浅草散歩ガイド』(編著)、『3.11 絆のメッセージ』(東京書店/渋井哲也・西村仁美ほか共著)など。
公式ページ「CRAFT BOX」 http://www.craftbox-jp.com
ブログ「節穴の目」 http://makoto-craftbox.cocolog-nifty.com
Twitter:@craft_box


[スポットメンバー]
連載タイトル「反おっさん的思考〜ドキュメンタリー映画評〜」
中島麻美 
なかしま・あさみ 

1977年、埼玉県三郷市の巨大団地で育つ。大学卒業後、新潮社にて「週刊新潮」「新潮45」「週刊新潮」「フォーサイト編集部」の順で編集記者とサイト開発などに従事。2001年取材を担当した新潮45「[女子中学生手錠放置殺人事件]修羅の家〜被害者母親が告白『夫が実の娘にしたこと』」(執筆・中尾幸司)で、雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。著書に「ガムテープで作るバッグの本」(池田書店)。連載記事「原発20キロ圏内のリアル」(http://goo.gl/32ek3)、「ごはんレシピ」(http://goo.gl/PXOma)
[Twitter] @aknmssm
[Facebook] http://www.facebook.com/nakashimaasami


[スポットメンバー]
連載タイトル:「とりあえず行ってみる〜風の向くまま気の赴くままに〜」
西村仁美 
(にしむら・ひとみ)

1968年、東京生まれ。フリーターをしながらアジアを放浪。のち、ルポライター兼フォトグラファーに転身。主に野宿生活者や少年に関わる社会問題、を中心に取材。奄美や沖縄、韓国のシャーマンの自然観や世界観、チベットの精神文化などにも関心があり、取材ジャンルの幅を近年さらに広げつつある。
著書に『悔 野宿生活者の死と少年たちの十字架』(現代書館刊)、『「ユタ」の黄金言葉』(東邦出版刊)、『格安! B級 快適生活術』(共著/ちくま文庫)など。
おきなわ★ねじ式ラジオ http://ameblo.jp/0978neji-radio
Twitter:@ruri_kakesu


[スポットメンバー]
連載タイトル:「東京地裁高裁アパルトヘイト観察記
三宅勝久
 (みやけ・かつひさ)

1965年岡山県生まれ。フリーカメラマンとして中南米・アフリカの紛争地などを取材、『山陽新聞』記者を経て2002年からジャーナリスト。「債権回収屋G 野放しの闇金融」で第12回『週刊金曜日』ルポルタージュ大賞優秀賞受賞。2003年、同誌に連載した武富士批判記事をめぐって同社から1億1000万円の賠償を求める訴訟を起こされるが最高裁で武富士の完全敗訴が確定。不当訴訟による損害賠償を、同社と創業者の武井保雄氏から勝ち取る。
主著に『サラ金・ヤミ金大爆発 亡国の高利貸』『悩める自衛官 自殺者急増の内幕』『自衛隊員が死んでいく “自殺事故”多発地帯からの報告』(いずれも花伝社)、『武富士追及 言論弾圧裁判1000日の闘い』(リム出版新社)『自衛隊という密室 いじめと暴力、腐敗の現場から』(高文研)など。
公式毒舌ブログ http://ameblo.jp/loansharks
Twitter:@saibankatuhisa


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〜〜〜〜〜〜マガシン名「石のスープ」の由来〜〜〜〜〜〜


とある村に、お腹をすかした旅人がやってきた。村人たちに食事を与えてくれるように頼んでみたが、自分たちの大切な食料を分ける事は出来ないと、断られてしまう。
一度は引き下がった旅人だが、傍の石を拾い、再び村人たちと交渉した。
「故郷から持ってきたこの石を入れると、とてもおいしいスープができるんです。鍋を借りてお水をいただくだけで結構なのですが……」

もちろん誰も信じなかったが、水と鍋だけならと村人の一人が半信半疑で旅人に水を与え鍋を貸してくれた。
さっそく旅人は石を煮始めた。村人たちは、この奇妙な料理に興味津々。暫くして味見をしている旅人に、一人の村人がスープの出来を尋ねた。
「この石は、すでに沢山のスープを作り過ぎていて、少し味が薄くなってしまっています。塩と胡椒があれば、もっとおいしくなるんですが……」
すると別の村人が、塩と胡椒だけならと旅人に与えてくれた。

同じ要領で、野菜や肉を村人たちから少しずつ分け与えてもらった旅人は、見事においしいスープを作り上げた。
スープの正体に気づかず、おいしい石のスープに感心する村人たち。スープで満腹になった旅人は、お礼だからと言って村に石を与え、また旅立っていった。


「石のスープ」(Sopa de pedra)は、ポルトガルに伝わるお話です。
今でもポルトガルのある地方では、レストランで「石のスープ」を注文すると本当に石の入ったスープが出てくるそうです。
このお話は、「知恵」や「協力」の比喩として伝わっているとか……。

「週刊 石のスープ」を発行する僕たちは、フリーランスとして活動しているジャーナリスト、ライター、編集者のグループです。

それぞれのライフワークとしている取材対象はバラバラですし、それぞれの価値観も違います。そんなバラバラのフリーランサー達が協力しあって、一つのメールマガジンを発行したら、いったいどんな媒体になるか、僕たちにもわかりません(笑)。
それでも、この混沌とした時代に活動する同世代のフリーランサー達が、様々なしがらみから解放され、それぞれに見た社会の出来事を伝えることで、きっと僕たちなりの媒体が出来上がると思います。

僕たちが作った「石のスープ」が、どんな味になるのか、ぜひご賞味ください。

category: はじめに

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