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3.11取材報告:石のスープ

フリーランスのライターやジャーナリストがお届けする有料メールマガジン「石のスープ」。東日本大震災の取材報告を中心に、バラバラのフリーランサー達が集まって一つの媒体と作ると、どんな味に仕上がるでしょうか……

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村上和巳【我、百文の一山なれど】vol.3「奇跡の愛犬「ジロ」とともに〜北茨城市」 



石のスープ
定期号[2013年1月31日号/通巻No.67]

今号の執筆担当:村上和巳




 岩手、宮城、福島の3県の被害を中心に語られる東日本大震災。だが、地震による大津波は北海道から千葉県まで広い地域に来襲した。福島県の南に位置する茨城県も津波被災地の1つで、県北東部の沿岸部最北端に位置する北茨城市は茨城県最大の津波被災地である。

 北茨城市は、言い方は悪いが、その無味乾燥な自治体名が示すように合併により発足した自治体だ。といってもいわゆる「平成の大合併」ではない。
 第二次世界大戦後、日本では学制が変更され、新制中学校の整備が進められるが、その際、国は新制中学の管理を目的に自治体の人口規模8000人以上を標準として町村合併を進めるために1953年に町村合併促進法を施行。さらに1956年には町村数の適正化に向け新市町村建設促進法を施行し、町村合併を進めた。これは「昭和の大合併」と称される。
 北茨城市はこの昭和の大合併の流れをうけ、1956年3月31日に当時の多賀郡磯原町、大津町、関南村、関本村、平潟村、南中郷村の6町村が合併して茨城県下15番目の市として発足した。

 ただし、この地域そのものの歴史はかなり古い。東海道というとかつての東海諸国を結ぶ街道として、安藤広重の「東海道五十三次」などで有名だが、この東海道はもともと日本国内で律令制導入後に整備が始まったもので、北限起点は当時常陸国だった現在の北茨城市である。
 
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[キャプション]北茨城市の大津港。震災前は左手の土砂のところから
船が係留されているところまでコンクリートの護岸があったが、震災に
より崩壊し、海中に沈下した(2013年1月)          



■津波と原発に襲われた街を歩く

 さて東日本大震災による津波は、北茨城市では南端の中郷町から北端の平潟町まで沿岸部に幅広く及んだ。数字上で見ると、同市の津波浸水面積は3平方キロメートルで、市の面積187平方キロメートルの2%未満に過ぎない。
 しかし、押し寄せた津波は市中心部の磯原町周辺ではJR常磐線の線路を超えた。さらに北茨城市が公表した津波ハザードマップによると、最大津波浸水高は磯原町周辺で4.4メートル、大津町の大津港周辺では4.3メートル、さらに最北端の平潟町の平潟港周辺では6.7メートルにも達した。
 浸水面積は少なくとも、これだけの大きな波に襲われたのだから局地的には極めて甚大な被害を受けた。市内の死者は5人。そして大津町ではいまだ1人が行方不明だ。北茨城市役所建設課によると、市内で津波被害を受けたのは156世帯。地震動による被害も含めた市全体の家屋被害は全壊410戸、大規模半壊396戸、半壊(床上浸水も含む)1569戸である。
 漁港が甚大な被害を受けた平潟港や大津港は今現在も補修中で、大津港は今年2013年3月上旬の完了予定。復旧まで実に2年を要することになる。昨年の2012年1月に現場を歩いた時には、大津港では津波で破壊された護岸のコンクリートが半ば漁港に沈みながら放置されていた。

 当時、近くで漁網の手入れを行っていた漁師さんにそのことを尋ねると、「宮城や岩手の方が先で、修理に予算がつかないってことだろうな。まあ、あれのせいもあるしな」とつぶやいた。
 「あれ」とは東京電力・福島第一原発事故の影響だ。事故により同原発2号機から一部高濃度の放射能汚染水が海に流れただけでなく、東京電力は2011年4月4日、そうした高濃度放射能汚染水の貯蔵場所確保のため、廃棄物集中処理施設に溜まっていた低濃度汚染水1万トン以上を海洋に放出するという暴挙に出た。
 翌4月5日、その前日に北茨城市沖で捕れたコウナゴから、当時の食品衛生法で定められた魚介類の放射能暫定基準値である「1キログラム当たり500ベクレル」を超える526ベクレルの放射性セシウムが検出されたことを機に、県側の要請もあり、茨城沿岸地区漁業共同組合連合会は県全域でコウナゴ漁の出漁自粛を決定。加盟する11の漁業協同組合では全面出漁自粛を決めたところも少なくなかった。
 茨城県の小型船漁業協議会と底引網漁業協議会は約10日後の4月14日にはコウナゴ以外の漁の再開を決めたが、既に茨城県産の魚介類は市場で値崩れが始まっており、受け入れそのものを拒否される例もあった。
 その影響で2012年1月の段階でも茨城県の漁業活動は復活していなかった。前述の漁師さんはそうである以上、護岸補修は急ぐ必要がないのだろうという意味で話していたのだ。そして今も茨城県のコウナゴ漁は試験操業による様子見が続いている。


■なぜ仮設住宅に犬がいる?

 そんな大津港から北に徒歩で15分ほどのところに北茨城市立大津小学校がある。私が初めてここを訪れたのは2012年1月11日の夕刻。ここには北茨城市で10棟しかない仮設住宅のうちの大津仮設住宅5棟があると聞いていたからだ。
 しかし、小学校周辺を歩いても、なかなか目指す仮設住宅は見当たらなかった。周囲を歩く人もほとんどおらず、誰かに尋ねることすらできなかった。仕方なく休日で人気のない小学校の校庭をぶらつくと、学校敷地の片隅に小さな歩道があることに気づいた。歩道の先には人気のない原っぱが見える。とりあえずその歩道を歩き、ちょうど原っぱが広がる一角に出たとき、突如1匹の犬が吠えながら私に向かってきた。
 一瞬たじろいだが、犬は私のそばまで来ると吠えるのをやめ、やや遠巻きにして様子を伺っている。犬が走り出してきた先を見ると、そこに戸建のプレハブが5棟、ひっそりと建っていた。そこが大津仮設住宅だった。どうやらこの犬はそこで飼われているらしい。不思議に思って誰かに尋ねてみようと思ったが、既に夕暮れが近いにもかかわらず、どの仮設住宅も真っ暗で留守のようだった。
 翌日再訪することにして歩き出すと、犬はしばらく後ろをついてきたが、原っぱの出口あたりに差し掛かると、踵を返すように住宅に向かって戻り、5棟の仮設住宅のちょうど真ん中の棟の前でウロウロしていた。

 翌朝、再び仮設住宅に向かうと、ちょうど敷地の一角で初老の男性と中年の男性が立ち話をしていたところに遭遇した。私が敷地に入ると、初老の男性のそばから再びあの犬が吠えながら私に向かって駆け出してきた。
 男性が「こらジロ、ダメだよ」と声をかけている。なるほどこの犬はジロというのか。私は男性に近づき、犬の飼い主であることを確認すると彼は頷いた。ジロの飼い主・会沢五示(いつし)さん(59歳)だった。昨日、ここに来てジロと遭遇していたこと、また震災取材で各地を巡っていることを伝え、お話をお伺いできないかと頼むと、ひと呼吸置いて会沢さんは自宅の仮設住宅に私を招き入れてくれた。

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[キャプション]北茨城市大津小学校近くにある大津仮設住宅



■飼い主・会沢さんとジロの出会い

 会沢さんは男5人兄弟の3男として、北茨城市平潟町に生まれ、そこで育った。「五示(いつし)」という珍しい名前だが、出生時に産婆さんが名付け親になって付けてくれたもので、ご本人は詳しい由来を知らないそうだ。かつては船に乗り、漁師として底引き網漁をしていたが、現在は平潟町にある会社で配管工として勤めている。

 ジロとの出会いは今から約14年前まで遡る。当時住んでいた平潟町の家の近所に犬を飼っている友人がいた。1人暮らしの寂しさもあり、友人には以前から子犬が生まれたら1匹譲って欲しいと頼んでいた。そして待望の子犬が3匹産まれた。そのうちの1匹の雄犬をまだ目も開いていなかった時に貰い受けた。そんな状態で貰われて行ったためか、なんとジロの母犬はその後約1か月間、友人宅と当時の会沢さんの自宅の約200メートルの距離を朝夕に駆けて来て、ジロに授乳していたという。
 それから14年ともに生活し、会沢さんが「ジロのことならば、俺は何でもわかる」と自負する、まさに子供同然の存在だ。

 長年、屋内で座敷犬として暮らしてきたジロはある種独特だ。よく座敷犬は自分を犬だとは露程も思わず、人間同然だと思っていると言われる。会沢さんに聞いた様子からは、ジロもまさにこうした座敷犬の典型のようである。
 例えば、犬ならば肉食、ネコならば魚食と一般的には思われがちだが、ジロの好物は意外なことに白身の刺身である。しかも、単に刺身を与えてもジロは食べない。「刺身に醤油をつけて、さらに山葵をのせてはじめて口にする」と会沢さん。子犬の頃から「親」である会沢さんの傍で育ってきたジロは、会沢さんの食生活をそのまま受け継いでいるのだ。
 最近、血圧値が高めの会沢さんは、脂っこいものを控え、野菜中心の食生活に切り替えたが、その影響でジロも今では野菜を普通に食べる。もう一つジロの好物は缶コーヒー。しかも飲んだ後は空き缶を咥えて同じ場所に集めて、きちんと後片付けをする。


■あの日、目の当たりにした知人の死

 震災が起きたあの日、仕事が休みだった会沢さんは1年ほど前から住み始めた平潟町の借家の自宅から、自転車に乗って大津町の市営・宮下改良住宅に住む、かつて一緒に船に乗っていた友人を訪ねていた。
 友人宅にいた最中、突如大きな揺れが始まった。

「とにかく立ってはいられないほどだったね。テレビ、茶箪笥、仏壇が次々と倒れる始末だった」

 北茨城市も震度6弱という非常に強い揺れだった。
 会沢さんがいた宮下改良住宅は、大津港に連なる市街地より高台にある。より詳しく説明すると、大津町には記録上では元号で貞観(859〜877年)には確認されている佐波波地祗(さわわちぎ)神社という古い神社が大津港の後背の高台にある。余談ながら、過去に今回の東日本大震災と同レベルの地震と津波があったといわれるのが、まさにこの神社の存在が確認できる貞観期だ。
 そして港周辺の市街地の一角に石段があり、その石段を登りきった場所に鳥居がある。ただ、実際の佐波波地祗神社は鳥居をくぐった目の前を走る道路をさらにより高台に登って行ったところ。鳥居の前の道路の向こう側がちょうど宮下改良住宅だ。会沢さんは乗ってきた自転車を石段の下に止めて友人宅にやってきていた。
 そして地震後、友人宅から外に出た会沢さんは、ここから来襲する津波の様を目撃することになる。

 「第1波は港の護岸から水があふれる程度だった」

 しかし、第1波来襲後、逆に水が沖に向かって引き始めた。いわゆる津波の引き波である。引き波は大津港の沖堤防の先まで海底の砂が見えるほどだった。そこから5〜10分経過して、沖堤防より高い7〜8メートルはあるかと思われる津波がゆっくりとやってきて、護岸に係留されていた船の一部は沈み、さらに一部の船が陸上に向かって流されてきた。いつの間にか家も流され始め、周囲の様相は一変し始めた。

 泥まみれの海水は宮下改良住宅へと続く佐波波地神社への石段の麓まで押し寄せる。その時、近くで一台の軽自動車が波に飲み込まれかかっているのが見えた。運転していたのは会沢さん旧知の女性だった。彼女はかろうじてパワーウィンドウを開け、「助けて」と叫んでいたが、それが仇になって逆に車内に水が入ってパニックを起こした。顔は青ざめ、口から泡を吹き出した様子まで見えた。
 石段を麓近くまで降りた会沢さんだったが、「自分がいたところから彼女の車までは4〜5mは離れていたが、まだ津波は引いていないし、こちらの身の安全を考えると何もできなかった」と、当時を振り返る。
 車が海まで流されなかったこともあって、津波が小康状態になったとき周囲にいた人たちと共に彼女を車から引きずり出し、近くにあった板戸にのせて高台まで運んだ。既に意識は全くない状態。救急車を呼んで搬送してもらったが、後に彼女は搬送中の救急車内で死亡が確認された。北茨城市の5人の死者のうちの1人、松川智子さん(当時52歳)だった。

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[キャプション]市営宮下住宅付近の高台から大津港を望む。
この石段の麓まで津波が押し寄せた            



■奇跡の生還を果たした「ジロ」

 こうして津波から助かった会沢さんだが、気が気でない思いを抱えていた。平潟町の自宅はなんせ海の目の前。その自宅ではジロが家の中で留守番していたはず。ただ、既に大津町での惨事を目にしていたため、「(自宅は)もうダメだろうな」と考えていた。

 乗ってきた自転車は津波で流されていた。津波でがれきが大量に発生したこともあって、国道6号線に通じる県道27号線は通行止めになっているという情報も入ってきた。仕方なく午後5時すぎ、大津町から海沿いの五浦方面を経由して徒歩で自宅に向かい始めた。日も落ち、真っ暗な中で、あちこちで地割れや陥没、一部では小規模な山崩れを起こしている道を恐る恐る歩きながら1時間以上かかり、ようやく平潟港付近までたどり着いた。
 港近くで暗闇の人影が近づいてきて「会沢さんかい?」と声をかけてきた。地元の友人だった。彼は言った。
 「ジロは?」
 「家にいるよ」
 そう答えた会沢さんに友人は言った。
 「たぶんジロはもうダメだと思うよ」
 平潟町は平潟港を挟み、南北に分かれて海沿いの集落が形成されている。今回の津波で南側の集落は壊滅状態になった。そして会沢さんの自宅がまさにこの南側にあったのだ。

 早速、2人で海沿いの自宅に向かうと、案の定、家の中は押し寄せた津波で水浸しになり、めちゃくちゃに破壊されていた。日は落ちているから様子もよくわからない。友人と2人で「ジロ」と何度も呼んだが、何も反応はない。
 「もうダメだ。ジロは死んだ」と思った会沢さんらが諦めかけて家を出ようとした時に、友人がもう一度「ジロ」と呼んだ。すると、暗闇の中から「クーン」と小さな鳴き声が聞こえた。
 慌てて探すと、津波により山型に浮き上がっていた畳の間に挟まれていたジロを見つけた。押し寄せた津波の中で必死に踏ん張ったジロを見つけた瞬間、涙がこぼれて仕方がなかったという。
 後にわかるが会沢さんの自宅は約2メートルも浸水していた。ジロは少なくとも一度は確実に波に飲まれていたのだ。当時、平潟町の港周辺には野良犬と野良猫が数匹いたが、津波に巻き込まれたのか3・11以後一斉に姿を消した。そのことを考えれば、ジロの生還は奇跡と言ってよかった。

 ジロを見つけた頃には夜も更けていたが、その時、ちょうどやや小規模な津波が会沢さん宅前の堤防に寄せてしぶきを上げた。慌ててその場から離れて近所の集会所に向かうも大勢の人で溢れていた。小学校も同様だった。そもそも犬を連れて避難所に入ることもできない。結局、同じ平潟町に住む勤務先の社長宅を訪ねて事情を話し、ジロともどもお世話になることが決まった。
 翌日は家の片付けに向かった。もっとも片付けといっても目的は両親と長男だった兄の位牌を探すこと。その位牌は震災から4日目に無事見つかり、今は会沢さんの仮設住宅にある。

 前述の松川さんも含め、北茨城市の死者は5人だが、2人は会沢さんが生まれ育った平潟町で発生している。うち1人は会沢さんが子供の頃から見知っており、地元でも有名だった食事処「入船」のご主人だった渡辺正雄さん(当時67歳)。店も津波で全壊した。たまたま震災後、渡辺さんの息子さんと顔をあわせた会沢さんは、店から流出せずに残った日本酒を「うちのお父さんの供養に」と手渡されもした。

 社長宅もいつまでも身を寄せていられるはずもなかった。東北3県と比べれば被害規模が小さかった北茨城市では、自宅を失った被災者の多くは公営住宅の空き部屋などに入居した。
 会沢さんも4月には全壊した自宅に代わる住居の申し込みをしていたが、周りの被災者が徐々に市営住宅などに入居していくなかで、会沢さんには暫く何の通知もなかった。不思議に思って5月上旬に市役所を尋ねると、役所ではまだ全壊認定のための現場確認をしていないことがわかった。すぐさま役所も動いてくれ現場確認に行ってくれた。

 問題はジロの存在だった。市営住宅に入居したら、基本的に犬を飼うことはできない。市役所でそのことを相談すると、最終的に市内の磯原町と大津町に各5棟、合計10棟しかない仮設住宅への入居を勧められ、2011年5月下旬に無事入居を果たした。もちろんジロも一緒だ。
 もっとも仮設住宅も原則は犬を飼うことはできなかったが、市役所の担当者は「周りから苦情がなければ」という条件で許してくれた。
 ちなみに北茨城市全体で震災時の家屋全壊などにより、仮住まいを余儀なくされた人達は、市役所建設課によると、延べで仮設住宅10世帯12人、地方公務員住宅11世帯36人、市営住宅11世帯23人、雇用促進住宅137世帯367人、民間住宅借上仮設161世帯429人。実に800人以上が会沢さんと似たり寄ったりの境遇にあるのだ。


■寂しさと恐ろしさの狭間で

 こうした震災の混乱もあったが、逆に北茨城市周辺でも復旧・復興に向けた動きも始まり、夏前には配管工の仕事へ復帰した。もっともそうした動きが収束し始めた2011年冬以降は仕事も大幅に減った。かつては配管工として全国を巡った会沢さんは「いまでも地方出張まで含めれば、仕事があるけどね」と苦笑いする。だが、ジロを飼うようになってからは、地方出張には行かなくなった。

 一方、震災後、会沢さんにも心理的な変化はあった。前述のように北茨城市では、震災で家失った人達は様々な入居先に分散したため、今は平潟町時代のご近所さんたちに会うことも少なくなった。「自分だけが孤立しているような寂しさはある」とも語る。
 だが、両親の位牌を見つけて以来、震災直後まで住んでいた平潟町、とりわけ港周辺は一度も再訪していない。毎年、秋の彼岸の時は、平潟町の実家の墓の掃除や墓参りにも行っていたが、震災の年は、兄である次男と弟たちにすべてを任せて、平潟町には戻らなかった。
 今の仮設住宅に移ってから買い物先などで平潟町の知り合いと顔を合わせ、「会沢さん、遊びに来いよ」と声をかけられるが、「そのうちな」と答えるだけで行かない。

 「平潟町に行けばいろいろと思い出す。自分の生涯にあれほどの津波は2度と来ないだろうと頭で理解はしていても、今回感じた恐ろしさを生涯忘れることできない」

 元は海の男だったが、それでも今回の震災を契機に今まで以上に海が怖いと感じるようになったのだという。

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[キャプション]会沢さんが震災直前まで住んでいた平潟港南側の集落。
現在、原っぱとなっている場所に、かつては住宅が密集していた    



 変化はジロにもあった。社長宅にお世話になっていた頃、激しい雨などが降ると、社長の許可を得て、屋内に入るよう言い聞かせたことがあったが、ジロは縁の下に隠れてしまって決して入らなかった。屋内で津波被害にあった影響らしい。会沢さんがちょっと大声で物を言ったりすると、以前と違って小さくプルプル震えたりもする。何よりも地震の揺れがあると、それが僅かなものでもキャンキャンと泣き叫ぶようになった。
 もともと知らない人には吠えがちなジロだが、一度会沢さん宅にお邪魔した人や会沢さんが吠えないように指示した相手には2度と吠えなくなるのに、地震だけはダメだった。

 最初にお話を伺った2012年1月当時、仮設住宅の入居期限後のはことを会沢さんがどうするかは何も決まっていなかった。でもただ1つだけ決まっていたことがある。
 「もう平潟町には戻らない」
 震災は会沢さんとジロの中に決して消すことができない傷を残していたのだ。


■ようやくみえてきた光明〜でも平潟町には戻らない

 それから1年がたった2013年1月13日、私は再び北茨城市の平潟町と大津町を訪ねた。
 平潟町では会沢さんらが住んでいた港南側の地区で防波堤の工事が進捗中、大津港も護岸の復旧工事も進んでいたが、崩れた護岸の上にまだ砂利を引いただけで道半ばという状況だった。
 そして大津仮設住宅にも足を運んだ。夕暮れ時に近く、会沢さんとジロの住むプレハブには明かりがついており、室内の窓際でジロがお座りをして外を伺っている様子が目に入った。

 会沢さんも私のことを覚えていてくれて、すぐに仮設住宅の中に招き入れてくれた。私が室内に入るのと入れ替わりにジロは外に出ていったが、今回は私に向かって全く吠えることはなかった。会沢さんは「ほら、一度来た人には吠えないって、俺の言ったとおりでしょう」と自慢げだ。
 「仕事はいかがですか?」と水を向けると、ややびっくりする答えが返ってきた。年明けから福島県双葉郡楢葉町での除染作業に従事しているという。この時期、朝日新聞が手抜き除染を報じたことで、除染事業には注目が集まっていた時期である。
 なんでも勤務している会社が除染を受注し、配管工として建設時や点検時に全国各地の原発を回ったことがある会沢さんに社長から白羽の矢が立ったとのこと。とにかくどこの受注企業にとっても初の試みであるため、配管工としての仕事よりは気を使うとのことだった。

 私は会沢さんを再訪するにあたって、どうしても聞きたいことがあった。それは今後どうするか? もっと具体的に言うならば、やはり平潟町には戻らないのかということだった。そもそもどれほど未曾有の事態を経験したとは言え、生まれ育った馴染みのある町を「それほど簡単に捨てられる」(ここは私の一方的な捉え方であるのは重々承知である)のかという、強い疑問があったからだ。
 「平潟」と言いかけた瞬間、まるでその問いを予期していたかのように会沢さんは微笑みながら答えた。
 「あれからも戻っていませんよ。一切」
 1年前と違うのは、仮設住宅入居時は気を使って屋外で飼っていたジロが、以前と同じように座敷犬に戻ったことだ。就寝時の定位置はベッドで寝る会沢さんの足元付近の掛け布団の上。もっとも今でも地震を怖がり、夜中に揺れが始まると、定位置から動いて会沢さんの布団に潜り込むという。
 今年で14歳になるジロは、人で言うならば70歳以上の高齢者だ。会沢さんとジロはもともと早朝に散歩に出かけるが、「最近は出かけ始めにはしゃいでいても、帰りは抱っこになってしまう」という。
 会沢さんが室内に戻ってきたジロの頭を撫でながら「なっ、最近は晩酌にも付き合ってくれないし」と呟く。驚く私を前に会沢さんが続けた。

 「昔は結構一緒に晩酌したんだよ。ジロの好みはレモンチューハイだったけど」

 どこまで人間臭いのだろう。
 そんな2人に若干ながら先が見えてきた部分もある。北茨城市は今年の春から自宅を失った被災者向けの災害公営住宅の建設に着手することを決定した。復興交付金を活用した建設費用は26億600万円。大津町、平潟町に13戸入居の鉄筋2階建てのものを各3棟、中郷町には鉄筋4階建ての32戸、計110戸を整備する予定。会沢さんは大津の災害公営住宅に申し込むことに決めている。場所は今の仮設住宅の真裏あたりだ。既にボーリング調査も終了し、早ければ今年秋までに完成する。ちなみに仮設住宅などの措置の1年延長も決まった。
 今年の年末ぐらいには会沢さんとジロも新しい住処に落ち着くのだろうか?
 北茨城市企画政策課によると、2013年1月1日現在、会沢さんも含め267戸661人の被災者がまだ仮住まいのまま。それも東京都心から150キロ強、特急で1時間半程度の場所で進行中のことなのだ。

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[キャプション]会沢さんとジロ





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村上和巳 むらかみ・かずみ
1969年、宮城県生まれ。医療専門紙記者を経てフリージャーナリストに。イラク戦争などの現地取材を中心に国際紛争、安全保障問題を専門としているほか、医療・科学技術分野の取材・執筆も取り組む。著書に「化学兵器の全貌」(三修社)、「大地震で壊れる町、壊れない町」(宝島社)、「戦友が死体となる瞬間−戦場ジャーナリスト達が見た紛争地」(三修社/共著)など多数。
[Twitter] @JapanCenturion
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■発行元:「石のスープ」編集部

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村上和巳【我、百文の一山なれど】vol.1「故郷を捨て、故郷に帰る〜はじめましてのご挨拶 後編」 



石のスープ
定期号[2012年10月28日号/通巻No.53]

今号の執筆担当:村上和巳



→故郷を捨て、故郷に帰る〈前編〉へ戻る←


 今月から「石のスープ」に参加した宮城県亘理町出身の村上和巳さん。
 自身の誕生から、戦災・紛争地域を取材するまでを辿った前編につづき、今号では、2011年3月以降のお話です。

*  *  *  *  *  *


■地元宮城県を襲った3.11

 2012年3月11日、私は徹夜明けで原稿を仕上げ、事務所にしていた築38年のアパートの部屋で昼ぐらいから仮眠していた。
 通常、睡眠中よはほどのことがない限り目を覚まさない。過去には海外で購入した少数民族伝統のナイフをベッドに放り投げ、それを忘れて眠りにつき、起床時に足が血だらけになっていたことに気付いたというほど鈍感だ。
 だが、あの時だけは違った。揺れはベットごと私の体を揺すった。Tシャツとトランクスのまま起き上がり、ベッドの端に腰掛けたものの、バランスが保てない。
 隣接するデスクがある部屋で「ドーン」と鈍い音も聞こえた。駆けつけるとプリンターが仕事机から落下していた。揺れの時間は長く、老朽化した木造アパート内では立っているのがやっとだった。

 揺れが収まるとテレビをつけた。宮城県沖が震源であることはその時点で知ったはずだが覚えていない。一番鮮烈な記憶はお台場のビル屋上の火災映像だった。
 午後3時近くという時間を知って、ハッとした。娘が下校し、学童クラブに向かっている時間だ。学童クラブに電話をしたが繋がらない。事務所から学童クラブまでは自転車で約10分。私は自転車に飛び乗った。

 途中の沿道では、あちこちで余震に怯えた人たちが表に集まっており、中には慌てて飛び出して閉め忘れたらしい個人宅の扉が余震でバタンバタンと揺れていた。
 学童クラブに到着すると、「おとうさーん」と手を振る娘の姿が目に入った。「わざわざ来ていただいてすみません」と言うクラブの指導員に通常通り午後6時に迎えに来る旨を伝えた。
 実は前述したフリーになりたての頃、私は宝島社より出版された日本国内の地震危険地帯を取り上げたムック「大地震で壊れる町、壊れない町」を丸一冊執筆していた。その関係で以後は大地震が起こると、週刊誌からコメントを求められることも少なくなかった。学童クラブにも娘にも異常はなかったので、この事態で発生する地震関連の仕事に備え、6時まで時間の余裕を作ろうとしたのだ。

 学童クラブ近くの自宅マンション内はモノ1つ落ちておらず、いつもと何も変わらなかった。ここで初めて妻の職場に電話をしたが、やはり繋がらない。
 自宅のテレビをつけると、東北地方太平洋沿岸が点滅している津波警報の地図が表示されていた。ここでようやく実家のことが頭に浮かぶが、父母双方の携帯も自宅も当然ながら不通だった。今度は板橋区に住む姉に電話をするもこちらダメ。
 そうこうしているうちに電話にいつの間にか着信履歴が表示される。旧知の週刊誌編集者だ。すぐに折り返すがこれも繋がらず。
 再び自宅を出ると、目の前を空車のタクシーが通り過ぎた。テレビでは都内のほとんどの電車が運休と報じていた。私は妻の携帯にメールを送信した。
「こちらではタクシーがまだ捕まる。それに乗ってこちらから迎えに行き、折り返せると思うので、必要ならば至急返信するよう」
 そんな内容だったと思う。妻からはこのメールが数時間後に届いたと後に聞かされた。

 このあとはたまたま私の夕食当番日だったこともあり、テレビもつけずに支度にとりかかった。合間に何度か実家と姉への連絡を試みたが、やはり不通。その後は妻が帰宅でき次第、なるべく早く姉の家に向かうべくシャワーを浴びた。
 6時に学童クラブに娘を迎えに行き、帰宅すると既に妻は戻っていた。地震直後に職場から帰宅指示があり、その時点で徒歩で自宅に向かったとのこと。実家のことを尋ねられるも連絡が取れないと話すしかなかった。

 家族全員が揃ったところでリビングのテレビをつけた。映る映像は、岩手、宮城沿岸に押し寄せる大津波、さらに東京電力・福島第一原発の全交流電源喪失というニュース。
 実家は海岸から約4km、福島第一原発から直線で約80km。さすがに津波に襲われることはないだろうが、尋常でない揺れと連絡不通が相まって、「両親のどちらかが死んでいてもおかしくないだろう」と覚悟した。板橋区の姉夫婦にもやはり電話はつながらない。急いで食事と後片付けを済ませ、私は自転車で約25分の姉夫婦のマンションに向かった。
 裏道を飛ばしていくが、どこもかしこも沿道は徒歩で家路を急ぐ帰宅難民で溢れんばかり。自転車も車道の真ん中を走らないと進めなかった。

 ようやくたどり着いた姉の家のインターホンを押すと、中から出てきた姉が「今、実家に電話がつながっている」という。慌てて室内に入り受話器を取ると母親の声がした。
「いやー、本当にすごかった。今回ばかりは死ぬかと思った」
 既に現地は停電・断水状態だという。もっと事細かに話を聞けば良かったかもしれないが、無事確認で一旦は満足してしまう。この分ならば明日以降、何回か電話をかければつながるだろうと考えたが甘かった。翌日から発災6日目まで実家の両親とは全く連絡が取れなくなってしまったのだ。しかも、この間、福島第一原発では1号機、3号機、4号機が相次いで水素爆発を起こしていた。

 発災6日目ようやくつながった電話で、両親に北上するか、山形を経由して日本海回りで東京に来るか、いずれかの方法で避難するように伝えた。
 だが、ガソリン不足でとても移動できないという。商店も営業しておらず、断水などは続いていたが、ガスがプロパンなので蓄えていた食料の調理は可能。近所同士で食べ物を融通し合っていることも教えてくれた。
 電話を切る直前、父が絞り出すような声で呟いた。
「今日で野菜もなくなるわ」
 両親にひもじい思いをさせ、何もできずじまいの40歳過ぎの自分が情けなかった。

■発災から2週間で向かった故郷

 発災以降、私は何をしていたのか?
 まず、津波と原発事故を受け、雑誌各社は現地からの報道とともに次はどこが危ないかという内容に軸足を置いていた。私はそうした記事の執筆やコメント取材を受けていた。

 一方で日常生活では予想もしない困難が起きていた。原発事故により都内で食品や日用品の買い占め現象が発生したからだ。
 この結果、スーパー1か所で夕食支度の買い物が済ませられず、5時半に退社して帰宅する妻では対応が不可能になった。炊事は連日、私の担当になり、午後2時には仕事を中断してスーパーをハシゴした。
 両親とは発災6日目以降、毎日連絡が取れるようになり、実家も光熱関係は改善されていることはわかったが、正常にはまだ程遠かった。親の様子もこの目で確認したいし、取材もしたい。
 ところがペーパードライバーで車も持っていない自分は現地に向えない。さらに足があったとしても、この時期は諸事情がそれを許さなかった。妻の仕事は毎年3月半ばから4月上旬までは残業続きの時期になる。とても私が家を空けられる状況ではない。
 毎日の家事負担、虚実入り混じる放射能情報、現地入りできない諸事情から、私は妻に春休みの間だけ、娘を東海地方にある妻の実家で預かってもらおうと提案してみた。そうすればほぼ全ての問題が解決する。ところが「こんな時こそ家族はバラバラになるべきではない」という義母の意見で提案は現実とはならなかった。私のフラストレーションは爆発寸前だった。

 発災から10日ほど経った頃だったろうか、突然妻が私に帰省してもいいと言い出した。間もなく娘は春休みに入り、朝から終日学童保育となる。給食はなくなり、毎日弁当持参になる。残業が続く妻にとっては1人で娘の面倒を見て、なおかつ弁当作りまでしなければならないことが、どれだけ大きな負担になるのかは容易に想像がついた。彼女はできないはずの譲歩をしているのだった。
 私は妻に何度も礼をいい、早速帰省の準備にとりかかった。まず、深夜バスチケットを予約し、仙台から亘理までの交通手段も調べた。仙台市南郊のJR東北本線・長町駅からバスが出ていることはわかった。
 両親には何か必要なものがないか尋ねた。母は「ソーセージやベーコンが食べたい」という。早速、手持ち可能な量のソーセージとベーコン、保冷剤を入手して梱包した。もちろんカメラも持った。こうして発災から2週間後、私は亘理町に向かった。

 東北自動車道を北上する深夜バスは、まさに白河を過ぎたあたりから震災による段差などで道路状況が悪くなり、車内はガタガタに揺れた。午前5時すぎ、仙台市の歓楽街・国分町近くに到着したバスから降りた私はとりあえず仙台駅方向に歩き始めた。3月の町はまだ薄暗かったが、それ以上に何かが異様だった。
 理由はすぐにわかった。現代生活に必要不可欠と化したコンビニがことごとく閉店し、その周辺で深夜や早朝に展開される限られた人通りすらも途絶え、車の往来もほとんどなく、生活音が消えていたのだ。ゴーストタウン化した政令指定都市なぞ想像もしていなかった。

 それでも私は歩くしかなかった。目指す長町駅までは、バスの降車地点から直線でも4km。亘理町への始発バスは3時間後だ。暗がりの仙台市中心部のアーケード街・中央通りに入った瞬間、目の前に横断幕が掲げられていた。
「私たちは負けない」
 これを見た瞬間、私はまだ被災現場も見ていないのに涙が止まらなくなった。いろいろな捉え方があるだろう。だが、私は「叫び」だと思った。未曾有の被災に巻き込まれた白河以北の。
 だが、ここで泣いている訳にいかないと言い聞かせ、袖口で目頭を拭いながら、歩き出した。長町駅への道すがらには、母校の中学校がある。懐かしいが人気のない、学区内の小道をひたすら南に進んだ。

 あるお寺の傍には、今は音信不通となった中学時代の親友宅があった。塀越しに覗いてみたが廃墟のような静けさ。状況が落ち着いたらまた訪ねてみようと考え、歩きだした。
 長町駅近くの広瀬川にかかる橋を渡って、そのまま前方に進もうとする視界の片隅に違和感を感じた。高架橋の駅も何もないところに新幹線の車両が静止していた。地震の揺れで緊急停止したのだろうが、乗客はこのあとどうしたのだろう。
 ようやく長町駅が見えると、さすがに極度の空腹を感じた。周囲に空いている店はない。自動販売機もほぼ全て「売切」の赤いランプが灯っているか、電源が入っていないかだ。持っていたタバコの箱も中はあと2本。

 長町駅前広場の片隅で繁華街方向を眺めていると、ある方向から割り箸の袋をのせた弁当らしきものを持って歩いている人が見えた。店内を3分の1ほどにパーテーションし、弁当3種類とペットボトルの緑茶1種類、わずかな日用雑貨を販売するセブンイレブンが営業していた。
 中華丼とお茶を手にしてレジに行くと、タバコの陳列ボックスに私が吸っているケント・ウルトラメンソール100Sだけが1箱残っていた。躊躇しながら指差すと、店員は特に表情も変えず、タバコをとってレジのバーコードリーダを当てた。恐る恐る私は尋ねた。
「あのー、Edy払いできますか?」
 ポイントマニアの私は、コンビニなどではEdy払いし、そこで得られる全日空のマイルを貯めている。
「ええ、大丈夫ですよ」
 被災地の機能不全状態のコンビニの店内におサイフケータイのEdyの「シャリーン」という精算音が鳴り響く。
 だが、ここはやはり被災地。レジ袋はなく、私は買ったもの全てを両手で抱えて店を出た。長町駅広場で中華丼を平らげ、お茶を一気飲みすると、バスが来るまでの間、ひたすらタバコを吸い続けた。

 亘理行のマイクロバスはほぼ満席だったが、狭い空間にひしめき合っているのに、乗客同士は不自然なほど会話を交わさない。
 国道4号線を中心に走るバスの車窓からはテレビでさんざん魅せられたあの津波被災らしい光景はない。バス路線の道路は海岸から5km以上は離れているのだから当然だろう。ただ、名取市内に入った時、路上にサラサラとした砂がうっすらとかぶっている様子だけが目に入った。
 故郷の亘理町と隣接する岩沼市との境界にある阿武隈川の橋を渡った時も河口方向を凝視したが、何もない。


※この後の記事(小見出しのみ紹介)
■半年前に見た光景とはまったく違う荒浜の漁港
■白河以北の一山としての意地

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渋井哲也、渡部真と、ジャーナリストの村上和巳さんの3人が、これまで東日本大震災で未だに記事に出来なかった様々なルポを約35篇書き下ろしました!
まだ終わっていない震災のなかでの暮らし、それでも明日への歩みが進んでいる。あの時、誰もが見つめた現実を、もう一度、しっかりと受け止めるために、災害の検証、原発問題、生活のなかで起きている問題、学校で暮らす子ども達、未来に向けた復興について、などのテーマに分けて構成されています。
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村上和巳 むらかみ・かずみ
1969年、宮城県生まれ。医療専門紙記者を経てフリージャーナリストに。イラク戦争などの現地取材を中心に国際紛争、安全保障問題を専門としているほか、医療・科学技術分野の取材・執筆も取り組む。著書に「化学兵器の全貌」(三修社)、「大地震で壊れる町、壊れない町」(宝島社)、「戦友が死体となる瞬間−戦場ジャーナリスト達が見た紛争地」(三修社/共著)など多数。
[Twitter] @JapanCenturion
[公式サイト] http://www.k-murakami.com/



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category: 村上記事

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村上和巳【我、百文の一山なれど】vol.1「故郷を捨て、故郷に帰る〜はじめましてのご挨拶 前編」 



石のスープ
定期号[2012年10月27日号/通巻No.52]

今号の執筆担当:村上和巳



 皆さん初めまして。今回、「石のスープ」のレギュラーメンバーとして執筆陣の一人に加わったフリージャーナリストの村上和巳と申します。今回、初参加ということで自己紹介をさせていただきます。
 
 そもそも今回私が新たに「石のスープ」に参加したのは、このメルマガが東日本大震災をメインテーマに据えることに起因しています。そこでなぜ私が東日本大震災を取材しているかを説明しなければなりませんが、私の場合、そのためには自分の出自にまで遡らねばならず、必然的にかなりの長文になります。多少読者の皆様を退屈させてしまうことは覚悟の上ですが、ここは少々辛抱していただき、最後までお付き合い願いたいと思っております。

■私の誕生を誰よりも喜んだ祖父

 私は昭和44年11月14日、宮城県亘理町の産院で生まれ、もうじき43歳。だが、そもそも私は生まれたことが奇跡の存在だった。母が妊娠初期に流産の危機に見舞われたからだ。当時は今ほど流産を阻止する治療法がないうえ産婦人科の主治医は母に対し次のように言い放ったという。

「人工的な流産阻止ができても、生まれてきた命はその後の生存競争で勝ち残れないだろう。だから、流産阻止の対応はしない。その代わり母体の体力増進のためのビタミン注射をする。それで生まれてきたならば幸運と思うように」

 一見すると優性思想にも思えるこの考えは、今ならば確実に問題視されるだろうが、当時の医師は「お医者様」と今以上に崇められた時代。これに加え特殊事情もあった。非情な方針を告げた産婦人科医は、私の父方の祖父だった。そして祖父の見立ては、出産には至らぬだろうと言うものだったらしい。
 私の母子手帳に記載された出生時体重はピッタリ「3000g」。もちろん実際には、そんなキリのいい数字ではなかった。正確には2000g台の後半だったとのこと。ところが体重計測中、細かいメモリを読むことが面倒になったらしい祖父が「おまけだ!」といって3000gになった。当時の祖父は70歳。長時間の出産に立ち会う産婦人科医としての体力を有する年齢ではなかった。実際、祖父は私を取り上げた日を最後に現役の産婦人科医を引退した。

 ただ、私が出生をことのほか喜んだのは、他ならぬ祖父だったとも聞いている。それは男孫だったからのようだ。いずれ詳しく触れることもあると思うが、父方は祖父で13代目の医師家系。当然、祖父には代を継いでいきたいという気持ちがあったのだろう。
 祖父の子供は4男3女で私の父は次男。当時、私の叔父である長男が医師を継いでいた。長男に息子が生まれれば、順当に代を継いで行ける。
 ちなみに古臭いと言われようが旧家ほど後継者は男系男子という風習がある。私が出生前に父方の男兄弟に息子は1人もおらず、祖父の喜びとは、これでとりあえず家名断絶はなくなると思ったものらしい。
 もっとも出生時、私の手首の太さは大人の親指ぐらいしかなく、口の悪い親戚の中には「お祝い前に葬式かもな」と言った人もいたらしい。しかし、周囲の予想に反し、それから40年以上、私は生存している。

 私が生まれた翌年、叔父である長男に待望の男の子が生まれたが、不幸にも彼は生後1週間で亡くなった。結局、祖父の孫13人中、成人を迎えたのは12人。
 父は母の村上家に婿入りして性は変わっていたが、祖父の家系で私はただ一人の男系男子だった。実際、高校3年の時、私は祖母から呼び出され。「おじいじちゃんがいずれお前に注射を打ってもらいたいと言っている」と告げられたこともあるが、私はそれに何も答えなかった。
 それから3年後、祖父はトイレの中で倒れ、病院に運び込まれ入院したが、そのまま回復することなくこの世を去った。父方では絶対的なカリスマだった祖父の病室には次々に孫が見舞いに訪れた。総勢11人。ただ、1人生前の祖父の枕元に間に合わなかったのはほかならぬ私だった。

■村上写真屋の息子は「風小僧」

 私が生まれた亘理町は宮城県南部の沿岸部に位置し、県庁所在地の仙台市までは電車で30分強の人口約3万3000人の町。町村レベルでは比較的人口は多い方だが(全国第45位)、私の小学校時代は3万人弱だった。
 江戸時代は仙台藩の亘理伊達家の所領。かつてNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で、俳優・三浦友和が政宗の腹心として活躍した猛将・伊達成実を演じたが、その成実が亘理伊達家の初代である。
 ちなみにドラマ内では、常に武断派として強硬策を唱える成実に対して「さにあらず」と異論を唱えていたのが、西郷輝彦扮する政宗の軍師的存在の知将・片倉景綱。前述した父方の祖父の先祖は代々、この片倉家に仕えてきた。

 さて亘理町についての私の端的な表現は、町村レベルでは商店街がやや大きめで、海も山もある風光明媚な場所となる。こう言えば聞こえはいいが、子供の頃の自分にとっては退屈な場所だった。
 幼い頃から本の虫だった自分にとって最大の苦痛が、自分の読書欲を満たす書店がなかったこと。読みたい本を手に入れるには、町の書店に注文していつ届くかわからないまま待つか、仙台まで電車に乗って買いに行くかだ。趣味だった切手収集の切手店も仙台にしかない。その不便さは耐え難きものだった。

 そして地方在住歴がある人ならばわかるが、人口3万人の町といえども互いに顔見知りは多く、悪く言えば「衆人環視」である。私の場合、実家が最寄りのJR常磐線・亘理駅前で写真屋をやっていたから、人よりも目立ちやすい。
 しかも、生来、わがままで変わり者で、かつ悪戯坊主。おむつが取れない歩き始めから、家を「脱走」することもしばしば。母はその度に店のシャッターを閉めて、私を探し回ったという。
 三輪車に乗れるようになると、私の行動半径は一気に広がり、徒歩で探索する母の手には負えなくなった。この時、母の強力な味方は隣にあるタクシー会社。無線を駆使して配車を担当していたタクシー会社の社長夫人は、母が駆け込むたびに無線を握ってこう叫んだという。
「隣の和巳、見ませんでしたか?どうぞ」
 5台ほどのタクシーが常に巡回している狭い町では、これをやられるとほぼ確実に捕捉された。結果、半開きにしたトランクに三輪車を詰められ、幼少の私はタクシーの助手席に堂々と「無賃乗車」して連れ帰られることになった。当時タクシーの運転手たちからつけられたあだ名が「風小僧」。もっともそんな風に言われるのはまだマシな方で、「村上写真屋の息子が……」と陰口を叩かれることもあった。

※この後の記事(小見出しのみ紹介)
■■白河以北一山百文
■■海外の一人旅を続け、メディアの世界に入る決心
■会社の仕事に忙殺される毎日が続き、フリージャーナリストへ転身
■イラク邦人人質事件のなかで起こった地元の誤解
■娘を連れて6年ぶりの帰省


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1969年、宮城県生まれ。医療専門紙記者を経てフリージャーナリストに。イラク戦争などの現地取材を中心に国際紛争、安全保障問題を専門としているほか、医療・科学技術分野の取材・執筆も取り組む。著書に「化学兵器の全貌」(三修社)、「大地震で壊れる町、壊れない町」(宝島社)、「戦友が死体となる瞬間−戦場ジャーナリスト達が見た紛争地」(三修社/共著)など多数。
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