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3.11取材報告:石のスープ

フリーランスのライターやジャーナリストがお届けする有料メールマガジン「石のスープ」。東日本大震災の取材報告を中心に、バラバラのフリーランサー達が集まって一つの媒体と作ると、どんな味に仕上がるでしょうか……

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渡部真【勝手気ままに】vol.18「2013年3月11日14時46分」 



石のスープ
定期号[2013年3月12日号/通巻No.73]

今号の執筆担当:渡部真


 
 あれから2度目の3月11日。
 僕は、2年前に50〜60人が避難していた高台に登り、そこで14時46分を迎えた。

 同じ時刻、僕のぞいて11人が同じ高台にいた。そこで3人から話を聞いたが、「2年前の当日も高台にいた」という人は一人しか出会えなかった。ボランティア4人組を除けば、残りは4人。この方々が2年前にどこで過ごしていたかは聞けていない。
 そこは、大手メディアで何度も取り上げられた高台で、この間に同地を訪れて町を見下ろした人もたくさんいたはずの「有名スポット」だ。

 それが僕の見た2013年3月11日14時46分だった。

 その後、この高台に避難して助かった女性が営む居酒屋に立ち寄った。同行記者が「どこで“その時”を迎えたのですが?」と尋ねたところ、「仕事で車移動しているときに、追悼のラジオ番組と、防災無線のサイレンが流れるなかで迎えた」と。

 この女性の店は自前のビルだったが、津波被害が大きく、震災から数カ月後に2キロほど内陸側に場所を借りて、居酒屋を再開した。近所の工場で働く人などが、ランチや夜の一杯に利用している。
 一昨年の7月から何度か伺っているが、お店にいくといつも「お帰りなさい」と出迎えてくれる暖かい店だ。昨日は、帰りにお土産まで持たせてくれた。

 それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの気持ちで3月11日14時46分を迎えたはずで、当然ながら、僕が見たそれは、何十万、日本全国では何千万という「その時」のホンの一部だ。微力なもので、そんな一部しか見ることができないし、伝える事ができないけども、とにかく「来年の311まで、やれるだけやろう」と思いながら、2年間、取材を続けてきた。

 そうやって311を迎えても、結局は、何の区切りにもならないし、3月12日になったからといって、何かが変わるわけでもない。
 たぶん、東日本大震災で当事者となっている多くの人達も、何も変わらない3月12日を迎えているだろう。
 この数日、メディアからは、大量の「震災関連情報」が流れたと思う。もちろん、一つの重要な日付である事は間違いないけど、でも、実際にその情報の渦中にいる多くの人たちにとっては、割りと淡々とした生活のなかに311があるんだと思う。

 そしてそれは、情報の受け手にとっても同じ事で、だからこそ、3月12日以降、大量の「震災関連情報」から開放されて、みんな淡々とした日常が戻っていくんだろう。
 それは、ある意味では「風化」だけども、ある意味では「日常化」だ。

 だから、その淡々とした日常の中に、いかに東日本大震災のことを感じとってもらうか。否、大切な情報は他にもいっぱいあるので、東日本大震災だけを伝えれば言い訳じゃないけども、それでも、これまでたくさんの人達の貴重な話を聞かせてもらった僕が……まぁ、極めていい加減な人間なんで、偉そうなことは言えないんだけど……そんな僕が、ちっとは使命感をもってやっていかなくちゃいけないのかなぁと、改めた感じた311だった。

 そして、また、来年の311まで、やれるだけやろうと思ってる。


DSC_8500-3.jpg
2013年3月11日14時46分
岩手県釜石市、釜石漁港や市街地を見渡す高台より




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■3月12日(火曜)発売!
週刊アサヒ芸能
「定点観測で見る被災地の2年後」


料金:390円
発行:徳間書店
http://www.asagei.com/

本日発売の『週刊アサヒ芸能』にて、「定点観測で見る被災地の2年後」という写真記事の中で、渡部がこれまで撮影した被災地の写真が掲載されています。震災から数カ月以内の被災地と、2年後である現在の被災地を写真で見比べられる企画です。思ったよりも写真の扱いが小さいのですが、ぜひお手にとってみてください。気仙沼、陸前高田、南相馬、相馬、気仙沼、石巻などが渡部の写真です。釜石市の震災後の写真は、渋井さんの写真です。



渡部真 わたべ・まこと

1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。東日本大震災以降、東北各地で取材活動を続けている。震災関連では、「3.11絆のメッセージ」(東京書店)、「風化する光と影」(マイウェイ出版)、「さよなら原発〜路上からの革命」(週刊金曜日・増刊号)を編集・執筆。
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駒林奈穂子【特別寄稿】「震災を知ることの意味」 



石のスープ
定期号[2013年3月3日号/通巻No.72]

今号の執筆担当:駒林奈穂子さん




 こんにちは。「石のスープ」編集部です。
 今号は、岩手県大槌町出身の駒林菜穂子さんから届いた特別寄稿をお送りします。
 編集者として活動している駒林さんは、大槌町で被災し、現在は釜石市の仮設住宅で暮らしています。昨年まで、三陸の今を発信する情報誌『Re-born』を発行。情報発信をする立場から、現在の心境を率直に書いていただきました。





130303koma_0020-2.jpg
岩手県上閉伊郡大槌町

 
 3月11日が近づいている。
 
 私が鈍いせいなのか、その日に向かって周りの空気が変わっているようにも特段感じないし、新しく何か始める人、もう始めて走り回っている人、会社で仕事をする人、お店のお客さんが増えたと喜ぶ人、また反対に減ってしまったと嘆く人、これから何をしていったらいいか悩んでいる人、みんな泣いたり笑ったり時には怒ったり、そんな日常に囲まれていて3月11日が来るから、それが来たからといって劇的に変わる訳でもなく、一日一日を淡々とであれ精一杯であれ虚無であれ生きている。
 遺族の方々は三回忌を迎え、その心中は完全に私が理解出来るものでもなく、また何かをしなければならないということでもなく、この時期はそっと静かに見守り、あとは日常で普通に笑ったり泣いたりすればよいのだ、と思ってる。

 私は一昨年から昨年にかけて、情報誌を発行していた。
 震災から半年後の当時は前に進み始めた人や特に悲惨な被災状況にあった方々が主に報道されていたように思う。被災地はそれだけではない、いろんな状況の人がいる、仮設住宅だって報道されるほど悲惨とは限らない、そして、命があるのは人間だけではなく動物も、という思いで「知ってください」と切に願っていた。
 そういう中で昨年2月に東京へ行き、私は衝撃を受けた。
 ここでは震災はもう過去のことだ、と。私自身も震災のことなど忘れたかのように友達との逢瀬を楽しんだりした。そして、発信するということをあきらめたというよりも、むしろ「覚悟」のようなものを感じた。
 地元に戻り、当初は国からの助成事業として始めたが、独立し有料で発行する事にした。
 「売れない」とは最初から覚悟していたが、作った以上広めなければと躍起になった。完全に自分自身を見失っていた部分もあったと思う。私の努力不足もあったが、情報誌は売れなかった。最後は、自分が作ったものなのに私自身が嫌々売っていることに愕然とした。

 「知って下さい、忘れないで下さい」ということに意味はあるのか。
 何を知ってほしいのか、そもそも知るとはなんなのか。

*  *  *  *  *

 
 専門を持つジャーナリストの方々は、自分の専門分野での問題点や課題に焦点を当て発信している。その部分を知る、ということでそれはとても有益な情報になる。しかし、私自身が発信する意味や怖さを分かっていなかった。それは大手のマスコミが流す「お涙頂戴物語」はたまた「被災地サクセスストーリー」に成り下がってしまう危険性をもはらんでいたと感じる。
 被災地に住んでいる人間の声だから聞かなければ、と思って下さるのは嬉しい。しかし、それはあくまで個人や一部分での声であり、全体を通して発信出来る人というのは、実はここにはいないのではないかと思っている。全体が見えている人が多ければ、復興などどんどん進んでいるのだから。

 時折事務所の電話が鳴る。もう震災から1年以上たち、人々の生活は仮設住宅に入るなどして一見落ち着いてはいたが、今度はそのぽっかりと空いた心の空白に焦燥と虚無を繰り返す時でもあったのだ。そこへ「古着を送ります」「絵本を寄付したい」等々、やはり「被災地のために何かしなければ」という焦燥感と正義感にかられた方の電話。「今はそんな時期ではない」という意味のことをやんわりと断るほど私には余裕がなかったかもしれない。
 そして、被災地そこここに「支援」の名を借りた魔物が棲み始めたのもこの時期だったように感じる。正義や大義名分に酔いしれ何か見えないものに向かって突き進むそれは私には異様に映った。そのような違和感を放っておいた結果の一つが、被災地某町の不正問題などを町ぐるみで引き起こしたのではないか。
 そしてここで暮らしていると、被災地の外にいる方々が、震災に関してどのように感じているのかという事が、外から届く情報や、ネット上やSNSからでしか把握出来ない。
 そこでは、去年肌身で感じた、「過去のもの」とはまた違うもっとドロドロしたものが見えてくることがある。「この人、よくわかってくれている」と共感することもあると一方で、「いい加減なことを言う人もいるなあ」と時々違和感を感じる。瓦礫焼却反対のニュースやツイートを見るたび、それが利権や危険と隣り合わせということをうっすら知っていながらも、その反対の罵声や暴動に「正義感の恐ろしさ」も見た。その違和感がどこからくるのか、また、なぜこんなに無関心な人が多いのか……。
 それが自分なりに納得出来るまで情報発信は自分の好きなお店、今住んでいる所の風景以外やめようと思った。


130303koma_0501-2.jpg
岩手県上閉伊郡大槌町

 
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駒林奈穂子 こまばやし・なおこ
岩手県上閉伊郡大槌町出身。震災後より釜石市在住。大槌・釜石などを中心に出版や広告を手がける。2012年度まで、「三陸の今を発信する情報誌『Re-born』」を発行。現在はブログにて、主に釜石・大槌に住む方々の「今とこれから」を発信している。

[Twitter]@coba210
[Facebook]http://www.facebook.com/naoko210
[ブログ] http://r311.jugem.jp/
[Re-born] http://office-r311.com/

※なお、無料時代の『Re-born』(PDFデータ)が、公式サイトから入手できます。



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渡部真【勝手気ままに】Vol.16「大川小学校の検証委員会を見て」 



石のスープ
定期号[2013年11月30日号/通巻No.59]

今号の執筆担当:渡部真


 
■犠牲になった児童数「74人」の重み


 東日本大震災を取材するなかで、いくつかの学校を取材して来た事はこれまでもこのコラムの中で書いてきた。これらの学校のなかに、宮城県石巻市立大川小学校がある。

 この学校の事は、拙編著『風化する光と影』(マイウェイ出版)のなかで、渋井哲也さんが紹介してくれているし、あまりにも有名になったので、同校の記事を読んだ人も多いだろう。
 大川小学校は、東日本大震災の際に発生した津波が北上川を逆流し、川の近くにあった校舎が呑み込まれた。河口から約5キロほど上流にあり、近代になって起こった過去の三陸地域の津波でも、大きな被害がなかったため、地域の人達は津波被害を予測していなかった(一応、学校の防災マニュアルには津波想定が前提となっているが、不十分だったため、その事も問題になっている)。
 同校では、震災当時、児童108人が在籍していたが、一部の児童は地震直後に保護者に引き渡された。校舎に残っている児童たちは、教職員達が避難について検討している間、校庭で避難していた。その間、教職員や地元住人達が、裏山に避難するか、近くの高台となっている三角地帯に避難するか検討していたが、地震発生から約40分後、いよいよ津波から避難すべきとなり、三角地帯に向かった。しかし、三角地帯は川にかかる橋のたもとにあり、むしろ危険が大きかった。津波はその三角地帯からも流れ込み、校舎の裏の河口堤防も超え、児童たちは津波に挟まれた形で呑み込まれた。死亡・行方不明合計74人の児童が犠牲となった。教職員も10人が亡くなっている。


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震災から1カ月後の大川小学校校舎(2011年4月15日)
  
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[地図1]宮城県
  
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[地図2]石巻市と大川小学校
※震災前の地形のため、地盤沈下や浸水等、
現在の地形とは若干異なる

  
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[図版]震災当時の大川小学校周辺


 この大川小学校の悲劇が紹介される際、よく「全校児童の7割が犠牲」と言われるが、僕はこの学校のことを取材し始めてからずっと、「全児童の7割」という数字より、74人という人数の多さが異常だと考えている。
 東日本大震災で犠牲となった、岩手、宮城、福島3県の小学生は、228人(死亡・行方不明合計/2011年5月現在)。3県を南北に結ぶと直線距離で三百数十キロにもなる。東京と名古屋よりも遠い距離だ。その広い範囲にいるすべての小学生の犠牲者が228人。その約3分の1にあたる74人の犠牲児童が、大川小学校の学校管理下で亡くなったということになる。全校児童100人程度の小規模学校だ。石巻の他の学校、北上川沿いにある学校でも犠牲は出ているが、何十人規模という犠牲はない。いかに大川小学校の悲劇が突出している数字か……。
 なので、「全校児童の7割」という表現は、できるだけ使わないようにしている。

 その大川小学校の被害の実態を明らかにするため、震災から2年が経とうとしている2月7日、ようやく市や文部科学省が設置した第三者機関「大川小学校事故検証委員会」の初会合が開かれた。すでに多くのメディアでも取り上げられている。

[毎日新聞]石巻・大川小:事故検証委が初会合 震災後の対応も対象に
http://mainichi.jp/select/news/20130208k0000m040110000c.html

[FNN]震災時の宮城・大川小の避難行動などを検証する第3者委が初会合(動画)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00240136.html

 今後、関係者などへの聞き取り調査や会合を重ね、今年末までに検証結果を出す予定になっている。



※この後の記事(小見出しのみ紹介)
■対照的に比べられる「釜石の奇蹟」は本当か?
■傷ついた遺族が納得できる検証結果になるか

□質問コーナー「一度の取材にかかる経費は?」

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渡部真 わたべ・まこと
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村上和巳【我、百文の一山なれど】vol.3「奇跡の愛犬「ジロ」とともに〜北茨城市」 



石のスープ
定期号[2013年1月31日号/通巻No.67]

今号の執筆担当:村上和巳




 岩手、宮城、福島の3県の被害を中心に語られる東日本大震災。だが、地震による大津波は北海道から千葉県まで広い地域に来襲した。福島県の南に位置する茨城県も津波被災地の1つで、県北東部の沿岸部最北端に位置する北茨城市は茨城県最大の津波被災地である。

 北茨城市は、言い方は悪いが、その無味乾燥な自治体名が示すように合併により発足した自治体だ。といってもいわゆる「平成の大合併」ではない。
 第二次世界大戦後、日本では学制が変更され、新制中学校の整備が進められるが、その際、国は新制中学の管理を目的に自治体の人口規模8000人以上を標準として町村合併を進めるために1953年に町村合併促進法を施行。さらに1956年には町村数の適正化に向け新市町村建設促進法を施行し、町村合併を進めた。これは「昭和の大合併」と称される。
 北茨城市はこの昭和の大合併の流れをうけ、1956年3月31日に当時の多賀郡磯原町、大津町、関南村、関本村、平潟村、南中郷村の6町村が合併して茨城県下15番目の市として発足した。

 ただし、この地域そのものの歴史はかなり古い。東海道というとかつての東海諸国を結ぶ街道として、安藤広重の「東海道五十三次」などで有名だが、この東海道はもともと日本国内で律令制導入後に整備が始まったもので、北限起点は当時常陸国だった現在の北茨城市である。
 
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[キャプション]北茨城市の大津港。震災前は左手の土砂のところから
船が係留されているところまでコンクリートの護岸があったが、震災に
より崩壊し、海中に沈下した(2013年1月)          



■津波と原発に襲われた街を歩く

 さて東日本大震災による津波は、北茨城市では南端の中郷町から北端の平潟町まで沿岸部に幅広く及んだ。数字上で見ると、同市の津波浸水面積は3平方キロメートルで、市の面積187平方キロメートルの2%未満に過ぎない。
 しかし、押し寄せた津波は市中心部の磯原町周辺ではJR常磐線の線路を超えた。さらに北茨城市が公表した津波ハザードマップによると、最大津波浸水高は磯原町周辺で4.4メートル、大津町の大津港周辺では4.3メートル、さらに最北端の平潟町の平潟港周辺では6.7メートルにも達した。
 浸水面積は少なくとも、これだけの大きな波に襲われたのだから局地的には極めて甚大な被害を受けた。市内の死者は5人。そして大津町ではいまだ1人が行方不明だ。北茨城市役所建設課によると、市内で津波被害を受けたのは156世帯。地震動による被害も含めた市全体の家屋被害は全壊410戸、大規模半壊396戸、半壊(床上浸水も含む)1569戸である。
 漁港が甚大な被害を受けた平潟港や大津港は今現在も補修中で、大津港は今年2013年3月上旬の完了予定。復旧まで実に2年を要することになる。昨年の2012年1月に現場を歩いた時には、大津港では津波で破壊された護岸のコンクリートが半ば漁港に沈みながら放置されていた。

 当時、近くで漁網の手入れを行っていた漁師さんにそのことを尋ねると、「宮城や岩手の方が先で、修理に予算がつかないってことだろうな。まあ、あれのせいもあるしな」とつぶやいた。
 「あれ」とは東京電力・福島第一原発事故の影響だ。事故により同原発2号機から一部高濃度の放射能汚染水が海に流れただけでなく、東京電力は2011年4月4日、そうした高濃度放射能汚染水の貯蔵場所確保のため、廃棄物集中処理施設に溜まっていた低濃度汚染水1万トン以上を海洋に放出するという暴挙に出た。
 翌4月5日、その前日に北茨城市沖で捕れたコウナゴから、当時の食品衛生法で定められた魚介類の放射能暫定基準値である「1キログラム当たり500ベクレル」を超える526ベクレルの放射性セシウムが検出されたことを機に、県側の要請もあり、茨城沿岸地区漁業共同組合連合会は県全域でコウナゴ漁の出漁自粛を決定。加盟する11の漁業協同組合では全面出漁自粛を決めたところも少なくなかった。
 茨城県の小型船漁業協議会と底引網漁業協議会は約10日後の4月14日にはコウナゴ以外の漁の再開を決めたが、既に茨城県産の魚介類は市場で値崩れが始まっており、受け入れそのものを拒否される例もあった。
 その影響で2012年1月の段階でも茨城県の漁業活動は復活していなかった。前述の漁師さんはそうである以上、護岸補修は急ぐ必要がないのだろうという意味で話していたのだ。そして今も茨城県のコウナゴ漁は試験操業による様子見が続いている。


■なぜ仮設住宅に犬がいる?

 そんな大津港から北に徒歩で15分ほどのところに北茨城市立大津小学校がある。私が初めてここを訪れたのは2012年1月11日の夕刻。ここには北茨城市で10棟しかない仮設住宅のうちの大津仮設住宅5棟があると聞いていたからだ。
 しかし、小学校周辺を歩いても、なかなか目指す仮設住宅は見当たらなかった。周囲を歩く人もほとんどおらず、誰かに尋ねることすらできなかった。仕方なく休日で人気のない小学校の校庭をぶらつくと、学校敷地の片隅に小さな歩道があることに気づいた。歩道の先には人気のない原っぱが見える。とりあえずその歩道を歩き、ちょうど原っぱが広がる一角に出たとき、突如1匹の犬が吠えながら私に向かってきた。
 一瞬たじろいだが、犬は私のそばまで来ると吠えるのをやめ、やや遠巻きにして様子を伺っている。犬が走り出してきた先を見ると、そこに戸建のプレハブが5棟、ひっそりと建っていた。そこが大津仮設住宅だった。どうやらこの犬はそこで飼われているらしい。不思議に思って誰かに尋ねてみようと思ったが、既に夕暮れが近いにもかかわらず、どの仮設住宅も真っ暗で留守のようだった。
 翌日再訪することにして歩き出すと、犬はしばらく後ろをついてきたが、原っぱの出口あたりに差し掛かると、踵を返すように住宅に向かって戻り、5棟の仮設住宅のちょうど真ん中の棟の前でウロウロしていた。

 翌朝、再び仮設住宅に向かうと、ちょうど敷地の一角で初老の男性と中年の男性が立ち話をしていたところに遭遇した。私が敷地に入ると、初老の男性のそばから再びあの犬が吠えながら私に向かって駆け出してきた。
 男性が「こらジロ、ダメだよ」と声をかけている。なるほどこの犬はジロというのか。私は男性に近づき、犬の飼い主であることを確認すると彼は頷いた。ジロの飼い主・会沢五示(いつし)さん(59歳)だった。昨日、ここに来てジロと遭遇していたこと、また震災取材で各地を巡っていることを伝え、お話をお伺いできないかと頼むと、ひと呼吸置いて会沢さんは自宅の仮設住宅に私を招き入れてくれた。

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[キャプション]北茨城市大津小学校近くにある大津仮設住宅



■飼い主・会沢さんとジロの出会い

 会沢さんは男5人兄弟の3男として、北茨城市平潟町に生まれ、そこで育った。「五示(いつし)」という珍しい名前だが、出生時に産婆さんが名付け親になって付けてくれたもので、ご本人は詳しい由来を知らないそうだ。かつては船に乗り、漁師として底引き網漁をしていたが、現在は平潟町にある会社で配管工として勤めている。

 ジロとの出会いは今から約14年前まで遡る。当時住んでいた平潟町の家の近所に犬を飼っている友人がいた。1人暮らしの寂しさもあり、友人には以前から子犬が生まれたら1匹譲って欲しいと頼んでいた。そして待望の子犬が3匹産まれた。そのうちの1匹の雄犬をまだ目も開いていなかった時に貰い受けた。そんな状態で貰われて行ったためか、なんとジロの母犬はその後約1か月間、友人宅と当時の会沢さんの自宅の約200メートルの距離を朝夕に駆けて来て、ジロに授乳していたという。
 それから14年ともに生活し、会沢さんが「ジロのことならば、俺は何でもわかる」と自負する、まさに子供同然の存在だ。

 長年、屋内で座敷犬として暮らしてきたジロはある種独特だ。よく座敷犬は自分を犬だとは露程も思わず、人間同然だと思っていると言われる。会沢さんに聞いた様子からは、ジロもまさにこうした座敷犬の典型のようである。
 例えば、犬ならば肉食、ネコならば魚食と一般的には思われがちだが、ジロの好物は意外なことに白身の刺身である。しかも、単に刺身を与えてもジロは食べない。「刺身に醤油をつけて、さらに山葵をのせてはじめて口にする」と会沢さん。子犬の頃から「親」である会沢さんの傍で育ってきたジロは、会沢さんの食生活をそのまま受け継いでいるのだ。
 最近、血圧値が高めの会沢さんは、脂っこいものを控え、野菜中心の食生活に切り替えたが、その影響でジロも今では野菜を普通に食べる。もう一つジロの好物は缶コーヒー。しかも飲んだ後は空き缶を咥えて同じ場所に集めて、きちんと後片付けをする。


■あの日、目の当たりにした知人の死

 震災が起きたあの日、仕事が休みだった会沢さんは1年ほど前から住み始めた平潟町の借家の自宅から、自転車に乗って大津町の市営・宮下改良住宅に住む、かつて一緒に船に乗っていた友人を訪ねていた。
 友人宅にいた最中、突如大きな揺れが始まった。

「とにかく立ってはいられないほどだったね。テレビ、茶箪笥、仏壇が次々と倒れる始末だった」

 北茨城市も震度6弱という非常に強い揺れだった。
 会沢さんがいた宮下改良住宅は、大津港に連なる市街地より高台にある。より詳しく説明すると、大津町には記録上では元号で貞観(859〜877年)には確認されている佐波波地祗(さわわちぎ)神社という古い神社が大津港の後背の高台にある。余談ながら、過去に今回の東日本大震災と同レベルの地震と津波があったといわれるのが、まさにこの神社の存在が確認できる貞観期だ。
 そして港周辺の市街地の一角に石段があり、その石段を登りきった場所に鳥居がある。ただ、実際の佐波波地祗神社は鳥居をくぐった目の前を走る道路をさらにより高台に登って行ったところ。鳥居の前の道路の向こう側がちょうど宮下改良住宅だ。会沢さんは乗ってきた自転車を石段の下に止めて友人宅にやってきていた。
 そして地震後、友人宅から外に出た会沢さんは、ここから来襲する津波の様を目撃することになる。

 「第1波は港の護岸から水があふれる程度だった」

 しかし、第1波来襲後、逆に水が沖に向かって引き始めた。いわゆる津波の引き波である。引き波は大津港の沖堤防の先まで海底の砂が見えるほどだった。そこから5〜10分経過して、沖堤防より高い7〜8メートルはあるかと思われる津波がゆっくりとやってきて、護岸に係留されていた船の一部は沈み、さらに一部の船が陸上に向かって流されてきた。いつの間にか家も流され始め、周囲の様相は一変し始めた。

 泥まみれの海水は宮下改良住宅へと続く佐波波地神社への石段の麓まで押し寄せる。その時、近くで一台の軽自動車が波に飲み込まれかかっているのが見えた。運転していたのは会沢さん旧知の女性だった。彼女はかろうじてパワーウィンドウを開け、「助けて」と叫んでいたが、それが仇になって逆に車内に水が入ってパニックを起こした。顔は青ざめ、口から泡を吹き出した様子まで見えた。
 石段を麓近くまで降りた会沢さんだったが、「自分がいたところから彼女の車までは4〜5mは離れていたが、まだ津波は引いていないし、こちらの身の安全を考えると何もできなかった」と、当時を振り返る。
 車が海まで流されなかったこともあって、津波が小康状態になったとき周囲にいた人たちと共に彼女を車から引きずり出し、近くにあった板戸にのせて高台まで運んだ。既に意識は全くない状態。救急車を呼んで搬送してもらったが、後に彼女は搬送中の救急車内で死亡が確認された。北茨城市の5人の死者のうちの1人、松川智子さん(当時52歳)だった。

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[キャプション]市営宮下住宅付近の高台から大津港を望む。
この石段の麓まで津波が押し寄せた            



■奇跡の生還を果たした「ジロ」

 こうして津波から助かった会沢さんだが、気が気でない思いを抱えていた。平潟町の自宅はなんせ海の目の前。その自宅ではジロが家の中で留守番していたはず。ただ、既に大津町での惨事を目にしていたため、「(自宅は)もうダメだろうな」と考えていた。

 乗ってきた自転車は津波で流されていた。津波でがれきが大量に発生したこともあって、国道6号線に通じる県道27号線は通行止めになっているという情報も入ってきた。仕方なく午後5時すぎ、大津町から海沿いの五浦方面を経由して徒歩で自宅に向かい始めた。日も落ち、真っ暗な中で、あちこちで地割れや陥没、一部では小規模な山崩れを起こしている道を恐る恐る歩きながら1時間以上かかり、ようやく平潟港付近までたどり着いた。
 港近くで暗闇の人影が近づいてきて「会沢さんかい?」と声をかけてきた。地元の友人だった。彼は言った。
 「ジロは?」
 「家にいるよ」
 そう答えた会沢さんに友人は言った。
 「たぶんジロはもうダメだと思うよ」
 平潟町は平潟港を挟み、南北に分かれて海沿いの集落が形成されている。今回の津波で南側の集落は壊滅状態になった。そして会沢さんの自宅がまさにこの南側にあったのだ。

 早速、2人で海沿いの自宅に向かうと、案の定、家の中は押し寄せた津波で水浸しになり、めちゃくちゃに破壊されていた。日は落ちているから様子もよくわからない。友人と2人で「ジロ」と何度も呼んだが、何も反応はない。
 「もうダメだ。ジロは死んだ」と思った会沢さんらが諦めかけて家を出ようとした時に、友人がもう一度「ジロ」と呼んだ。すると、暗闇の中から「クーン」と小さな鳴き声が聞こえた。
 慌てて探すと、津波により山型に浮き上がっていた畳の間に挟まれていたジロを見つけた。押し寄せた津波の中で必死に踏ん張ったジロを見つけた瞬間、涙がこぼれて仕方がなかったという。
 後にわかるが会沢さんの自宅は約2メートルも浸水していた。ジロは少なくとも一度は確実に波に飲まれていたのだ。当時、平潟町の港周辺には野良犬と野良猫が数匹いたが、津波に巻き込まれたのか3・11以後一斉に姿を消した。そのことを考えれば、ジロの生還は奇跡と言ってよかった。

 ジロを見つけた頃には夜も更けていたが、その時、ちょうどやや小規模な津波が会沢さん宅前の堤防に寄せてしぶきを上げた。慌ててその場から離れて近所の集会所に向かうも大勢の人で溢れていた。小学校も同様だった。そもそも犬を連れて避難所に入ることもできない。結局、同じ平潟町に住む勤務先の社長宅を訪ねて事情を話し、ジロともどもお世話になることが決まった。
 翌日は家の片付けに向かった。もっとも片付けといっても目的は両親と長男だった兄の位牌を探すこと。その位牌は震災から4日目に無事見つかり、今は会沢さんの仮設住宅にある。

 前述の松川さんも含め、北茨城市の死者は5人だが、2人は会沢さんが生まれ育った平潟町で発生している。うち1人は会沢さんが子供の頃から見知っており、地元でも有名だった食事処「入船」のご主人だった渡辺正雄さん(当時67歳)。店も津波で全壊した。たまたま震災後、渡辺さんの息子さんと顔をあわせた会沢さんは、店から流出せずに残った日本酒を「うちのお父さんの供養に」と手渡されもした。

 社長宅もいつまでも身を寄せていられるはずもなかった。東北3県と比べれば被害規模が小さかった北茨城市では、自宅を失った被災者の多くは公営住宅の空き部屋などに入居した。
 会沢さんも4月には全壊した自宅に代わる住居の申し込みをしていたが、周りの被災者が徐々に市営住宅などに入居していくなかで、会沢さんには暫く何の通知もなかった。不思議に思って5月上旬に市役所を尋ねると、役所ではまだ全壊認定のための現場確認をしていないことがわかった。すぐさま役所も動いてくれ現場確認に行ってくれた。

 問題はジロの存在だった。市営住宅に入居したら、基本的に犬を飼うことはできない。市役所でそのことを相談すると、最終的に市内の磯原町と大津町に各5棟、合計10棟しかない仮設住宅への入居を勧められ、2011年5月下旬に無事入居を果たした。もちろんジロも一緒だ。
 もっとも仮設住宅も原則は犬を飼うことはできなかったが、市役所の担当者は「周りから苦情がなければ」という条件で許してくれた。
 ちなみに北茨城市全体で震災時の家屋全壊などにより、仮住まいを余儀なくされた人達は、市役所建設課によると、延べで仮設住宅10世帯12人、地方公務員住宅11世帯36人、市営住宅11世帯23人、雇用促進住宅137世帯367人、民間住宅借上仮設161世帯429人。実に800人以上が会沢さんと似たり寄ったりの境遇にあるのだ。


■寂しさと恐ろしさの狭間で

 こうした震災の混乱もあったが、逆に北茨城市周辺でも復旧・復興に向けた動きも始まり、夏前には配管工の仕事へ復帰した。もっともそうした動きが収束し始めた2011年冬以降は仕事も大幅に減った。かつては配管工として全国を巡った会沢さんは「いまでも地方出張まで含めれば、仕事があるけどね」と苦笑いする。だが、ジロを飼うようになってからは、地方出張には行かなくなった。

 一方、震災後、会沢さんにも心理的な変化はあった。前述のように北茨城市では、震災で家失った人達は様々な入居先に分散したため、今は平潟町時代のご近所さんたちに会うことも少なくなった。「自分だけが孤立しているような寂しさはある」とも語る。
 だが、両親の位牌を見つけて以来、震災直後まで住んでいた平潟町、とりわけ港周辺は一度も再訪していない。毎年、秋の彼岸の時は、平潟町の実家の墓の掃除や墓参りにも行っていたが、震災の年は、兄である次男と弟たちにすべてを任せて、平潟町には戻らなかった。
 今の仮設住宅に移ってから買い物先などで平潟町の知り合いと顔を合わせ、「会沢さん、遊びに来いよ」と声をかけられるが、「そのうちな」と答えるだけで行かない。

 「平潟町に行けばいろいろと思い出す。自分の生涯にあれほどの津波は2度と来ないだろうと頭で理解はしていても、今回感じた恐ろしさを生涯忘れることできない」

 元は海の男だったが、それでも今回の震災を契機に今まで以上に海が怖いと感じるようになったのだという。

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[キャプション]会沢さんが震災直前まで住んでいた平潟港南側の集落。
現在、原っぱとなっている場所に、かつては住宅が密集していた    



 変化はジロにもあった。社長宅にお世話になっていた頃、激しい雨などが降ると、社長の許可を得て、屋内に入るよう言い聞かせたことがあったが、ジロは縁の下に隠れてしまって決して入らなかった。屋内で津波被害にあった影響らしい。会沢さんがちょっと大声で物を言ったりすると、以前と違って小さくプルプル震えたりもする。何よりも地震の揺れがあると、それが僅かなものでもキャンキャンと泣き叫ぶようになった。
 もともと知らない人には吠えがちなジロだが、一度会沢さん宅にお邪魔した人や会沢さんが吠えないように指示した相手には2度と吠えなくなるのに、地震だけはダメだった。

 最初にお話を伺った2012年1月当時、仮設住宅の入居期限後のはことを会沢さんがどうするかは何も決まっていなかった。でもただ1つだけ決まっていたことがある。
 「もう平潟町には戻らない」
 震災は会沢さんとジロの中に決して消すことができない傷を残していたのだ。


■ようやくみえてきた光明〜でも平潟町には戻らない

 それから1年がたった2013年1月13日、私は再び北茨城市の平潟町と大津町を訪ねた。
 平潟町では会沢さんらが住んでいた港南側の地区で防波堤の工事が進捗中、大津港も護岸の復旧工事も進んでいたが、崩れた護岸の上にまだ砂利を引いただけで道半ばという状況だった。
 そして大津仮設住宅にも足を運んだ。夕暮れ時に近く、会沢さんとジロの住むプレハブには明かりがついており、室内の窓際でジロがお座りをして外を伺っている様子が目に入った。

 会沢さんも私のことを覚えていてくれて、すぐに仮設住宅の中に招き入れてくれた。私が室内に入るのと入れ替わりにジロは外に出ていったが、今回は私に向かって全く吠えることはなかった。会沢さんは「ほら、一度来た人には吠えないって、俺の言ったとおりでしょう」と自慢げだ。
 「仕事はいかがですか?」と水を向けると、ややびっくりする答えが返ってきた。年明けから福島県双葉郡楢葉町での除染作業に従事しているという。この時期、朝日新聞が手抜き除染を報じたことで、除染事業には注目が集まっていた時期である。
 なんでも勤務している会社が除染を受注し、配管工として建設時や点検時に全国各地の原発を回ったことがある会沢さんに社長から白羽の矢が立ったとのこと。とにかくどこの受注企業にとっても初の試みであるため、配管工としての仕事よりは気を使うとのことだった。

 私は会沢さんを再訪するにあたって、どうしても聞きたいことがあった。それは今後どうするか? もっと具体的に言うならば、やはり平潟町には戻らないのかということだった。そもそもどれほど未曾有の事態を経験したとは言え、生まれ育った馴染みのある町を「それほど簡単に捨てられる」(ここは私の一方的な捉え方であるのは重々承知である)のかという、強い疑問があったからだ。
 「平潟」と言いかけた瞬間、まるでその問いを予期していたかのように会沢さんは微笑みながら答えた。
 「あれからも戻っていませんよ。一切」
 1年前と違うのは、仮設住宅入居時は気を使って屋外で飼っていたジロが、以前と同じように座敷犬に戻ったことだ。就寝時の定位置はベッドで寝る会沢さんの足元付近の掛け布団の上。もっとも今でも地震を怖がり、夜中に揺れが始まると、定位置から動いて会沢さんの布団に潜り込むという。
 今年で14歳になるジロは、人で言うならば70歳以上の高齢者だ。会沢さんとジロはもともと早朝に散歩に出かけるが、「最近は出かけ始めにはしゃいでいても、帰りは抱っこになってしまう」という。
 会沢さんが室内に戻ってきたジロの頭を撫でながら「なっ、最近は晩酌にも付き合ってくれないし」と呟く。驚く私を前に会沢さんが続けた。

 「昔は結構一緒に晩酌したんだよ。ジロの好みはレモンチューハイだったけど」

 どこまで人間臭いのだろう。
 そんな2人に若干ながら先が見えてきた部分もある。北茨城市は今年の春から自宅を失った被災者向けの災害公営住宅の建設に着手することを決定した。復興交付金を活用した建設費用は26億600万円。大津町、平潟町に13戸入居の鉄筋2階建てのものを各3棟、中郷町には鉄筋4階建ての32戸、計110戸を整備する予定。会沢さんは大津の災害公営住宅に申し込むことに決めている。場所は今の仮設住宅の真裏あたりだ。既にボーリング調査も終了し、早ければ今年秋までに完成する。ちなみに仮設住宅などの措置の1年延長も決まった。
 今年の年末ぐらいには会沢さんとジロも新しい住処に落ち着くのだろうか?
 北茨城市企画政策課によると、2013年1月1日現在、会沢さんも含め267戸661人の被災者がまだ仮住まいのまま。それも東京都心から150キロ強、特急で1時間半程度の場所で進行中のことなのだ。

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[キャプション]会沢さんとジロ





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村上和巳 むらかみ・かずみ
1969年、宮城県生まれ。医療専門紙記者を経てフリージャーナリストに。イラク戦争などの現地取材を中心に国際紛争、安全保障問題を専門としているほか、医療・科学技術分野の取材・執筆も取り組む。著書に「化学兵器の全貌」(三修社)、「大地震で壊れる町、壊れない町」(宝島社)、「戦友が死体となる瞬間−戦場ジャーナリスト達が見た紛争地」(三修社/共著)など多数。
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